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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第四部:茉莉花編
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四十三話

 八月に入っても、東京の暑さは衰える気配を見せなかった。じりじりと照りつける陽射しに、昼休憩の通りには陽炎が立つ。扇風機の音がだるそうに唸り、壁掛けの時計の針も、どこか眠たげに進んでいく。


 逓信省に戻って、三週間が経った。久しぶりの職場は大きな変化もなく、仕事量も大蔵省に比べれば格段に穏やかで、茉莉花はあらためて息をつく余裕を感じていた。


 ――俊哉の姿も、声もない。

 そのことが、何よりの静けさだった。


 廊下を歩いていても、背後から軽口を叩かれることもない。扉の陰で待ち伏せされることもなければ、紅茶と冗談で時間を奪われることもない。


(……平穏、というのは、こういうことなのかもしれない)


 けれど、それが長く続くとは限らない。そう思わせるような気配が、唐突に彼女の昼休みに舞い込んできた。


「朝倉さん……あの、よかったら、今日お昼ご一緒しません?」


 小声でそう言ってきたのは、三つ年上の田村だった。柔らかな目元とやや癖のある髪。

 背は高くないが、濃紺のスカートに合わせた白いブラウスは涼しげで、古風な中にもさりげない品がある。


 部署こそ違うが、田村とは以前から幾度か仕事で顔を合わせたことがあり、廊下で目が合えば軽く言葉を交わす程度には親しかった。


 三つ年上で、仕事ぶりは穏やかだが、率先して引っ張るタイプではない。

 それでも、茉莉花の仕事ぶりを陰で揶揄したり、必要以上に距離を取ったりはしなかった。時折「すごいですわねえ」と素直に感心してくれる珍しい人だった。


 茉莉花は誘いを一瞬ためらいかけたが、田村のやや落ち着かない様子に気づき、頷いた。


「……ええ。たまには、外に出るのもいいですね」


 


 二人で歩くのは初めてだったが、足並みは案外そろった。道沿いの柳がばさりと葉を揺らし、建物の陰に入ると、背中を撫でる風がほっとするほど心地よかった。


 喫茶店の扉には「冷房中」の札が下がっていて、店内からはカランとグラスの音が聞こえてきた。数組のサラリーマンが新聞を広げ、女学生風の二人連れが小声で何か話している。


「ここ、私のお気に入りなんです。朝倉さんは、あまり外でお昼は取らない方ですか?」


「……そうですね。誰かと一緒じゃないと、なかなか」


 田村は嬉しそうに笑いながら、二人用のテーブルを選んだ。


「で……なにか、話って?」


 アイスコーヒーが運ばれてくると、田村は少し身を乗り出した。


「こんなこと言うの、なんだか恥ずかしいんですけど。黙って聞いてくれます?」


 茉莉花は少し首をかしげた。


「ええ、聞きますよ。……何かあったんですか?」


 田村は、うんと頷くと、グラスの水滴を指先でなぞった。


「……私、たぶん初めて、好きな人ができたんです」


 その言葉に、茉莉花は少しだけ目を見張った。けれどすぐにその動揺を消して、ゆっくりとグラスを持ち上げた。


「好きな人、ですか」


 淡々とした返答だったが、田村は笑っていた。


「朝倉さん、こういう話、苦手でしょう?聞いてもらえるだけで良いんです。この年になって、ようやくこんな気持ちになるなんて、自分でも驚いてて。やっぱりおかしいかしら」


 「そうでもないですよ」と言おうとして、茉莉花は言葉を飲み込んだ。


 ――おかしいかどうか、そんなこと、私に分かるはずがない。


 だが、彼女が静かに微笑みながら「いいえ」と答えると、田村はぱっと顔を輝かせるのがわかった。


「……で、その方って、どんな方なんですか?」


 問いかけると、田村の頬がふわりとゆるんだ。カップに添えた手が、少しだけ嬉しそうに震えるのが見えた。


「ええと……他の省庁にお勤めの、私より少し上くらいの方です」


 田村は目を伏せ、指先でグラスの水滴をなぞった。


「朝倉さんが大蔵省に行かれていた頃、うちと何度か合同での会議があって、そのときに何度かお顔を見かけるようになって。私、いつも資料の準備が遅くなってしまうんですけど、そのときに丁寧なお仕事ですねって、言ってくださって」


 それが、始まりだったのだという。


 彼は話しかけ方も穏やかで、どこか余裕のある物腰だったらしい。

 職場では男たちが気安く声をかけてくるような空気もあまりなく、田村のような箱入り気質の女性には特に縁遠い世界だった。

 それだけに、ふとした言葉の温かさが胸に残ったのだろう。


「このあいだ、暑い日が続いていたから、涼しげな和三盆の干菓子を、麻の小さな布で包んで。ほんの三つ四つくらい。仕事の合間に、少しでも癒しになればと思って」


 それは、あまりにさりげない贈り物だった。

 恋人でもない、まだほんの挨拶を交わす程度の相手にとって、重すぎず、それでいて相手を想う気持ちがきちんと籠もった小さな手渡し。


 茉莉花は考えた。自分だったらそんな贈り物をするだろうか――たぶん、しないだろう。

 そこに気を配るような感情の動き自体、これまであまり縁がなかった。


 けれど、目の前でほんのり赤くなった田村の顔は、どこか眩しく見えた。


「……上手に返せなくてすみません。でも……うまくいくといいですね」


 田村は、ぱっと顔を上げた。


「ほんとに……? そう言ってもらえるだけで、なんだか、元気が出ました」


 テーブルに置かれた氷が、ひとつ崩れて音を立てた。冷たい飲み物が喉を通る音がふっと静まり、店内の他の席から、遠く誰かの笑い声が聞こえた。


 茉莉花は静かにカップを戻し、窓の外の陽射しを見やった。遠い誰かの話だという気がしながらも、ほんの少しだけ、その話の行方が気になっていた。


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