四十二話
「……いま、何を考えていたんですか?」
茉莉花はカップに指を添えたまま、わずかに身を乗り出した。問いかける声には優しさも気遣いもなかった。
むしろ、じっと観察し、引きずり出そうとするような鋭さがこもっていた。
俊哉の目が、わずかに揺れる。
「……鋭いですね。ほんの一瞬のことだったのに」
「あなたが、ほんの一瞬でも取り繕うのを忘れるなんて、よほどのことだと思いましたから」
挑むような言い回しだった。
俊哉は、いつものように笑みを浮かべて応じる。
「……昔のことを、少し思い出しただけですよ。たいした話じゃありません」
「教えてくれないなら、来月の食事はお断りです」
すっぱりと言い切るその声に、俊哉は笑みを引きつらせた。
「……ずいぶんと強気ですね。そんなことを言い出すなんて、茉莉花さん、僕に似てきましたか?」
「似たくなんてありません。聞かれたくない話なのかもしれませんが、あなたが黙って逃げようとする顔のほうが、よっぽど不愉快です」
俊哉は、視線を落とした。ややあって、静かに言葉を継いだ。
「――島田の父親のことです。……過労で亡くなられたんです。もう何年も前ですが」
「――っ」
何も言えなかった。言葉が、喉の奥で張りついたように出てこない。
彼女の脳裏に、白い病衣を着て枕に横たわっていた父の姿が浮かぶ。
薄く痩せた頬、優しい眼差し、娘の手を静かに握りしめていた、あの温かい掌。
――あの掌が、ある日、ふいに触れられなくなる日が来るとしたら。
ぞっとするような空白が、胸の奥に冷たく広がる。
俊哉は、そんな茉莉花の表情を見て、すぐに調子を戻すような口ぶりで言った。
「……まあ、そういうケースもあったというだけで、何も茉莉花さんのお父様に当てはまるわけじゃありません。医者から問題ないと言われているなら、心配いりませんよ」
俊哉の明るい声が、喫茶店の静けさにすっと溶けた。どこまでも軽やかな口調の裏側に、わずかに見え隠れする気遣い。
その手触りが、思いがけず茉莉花の胸に残った。
(……本当に、調子のいい人)
そう思いながらも、ふっと肩の力が抜けるのを感じていた。
心の中にじっとりと貼りついていた不安が、どこかの隙間からゆっくりと剥がれ落ちていくようだった。
「……島田さんのことになると、あなたも、そんな顔をするんですね」
茉莉花がぽつりと言った。
「意外でした。おふざけ以外の顔も、あるんだって」
「それはまた手厳しい。でもまあ……そうですね」
俊哉は、窓の外に視線をやりながら、少し声を落とした。
「島田とは、大学の頃からのつき合いです。……僕を、救ってくれた人ですよ。あの時、彼が手を差し伸べてくれなかったら、きっと僕は今とは違うところにいた」
「……救うって、何があったんですか?」
「それは、またいつか」
軽くはぐらかしたその言い方はいつもの俊哉そのものだったが、その口元には、わずかに過去の痛みの残滓がにじんでいた。
「……まあ、本人は逆に、僕が彼を救ったと思っているようですがね。お互いそう思っているから、友情ってやつは長持ちするのかもしれません」
茉莉花は目を細めた。俊哉の言葉の奥にある、どこか自嘲にも似た響きが、意外だった。
ややあって、俊哉は話題を戻すように言った。
「そういえばこの間、知代さんを困らせるようなことはしないでくれと、僕に言ったでしょう?」
「え?ええ」
「彼女は、大事な友人の妻です。……唯一といっていいくらいの友人のね。だからこそ、無礼なまねはしませんよ。それだけは安心してください」
その言葉には、珍しく冗談の余地がなかった。茉莉花は少しだけ口元を引き締め、小さく頷いた。
やがて、卓上のグラスの氷が、コトリと音を立てて崩れた。俊哉が懐中時計を取り出し、ちらと時刻を確認する。
「さて、そろそろ解散しますか。お会計は――」
「自分の分は、自分で払います」
茉莉花がきっぱりと告げると、俊哉は苦笑混じりに手を挙げた。
「まったく、律儀な方だ。……そこまでして僕に借りを作りたくないのですね」
「当然です」
返答に一片の迷いもない。俊哉は肩をすくめ、カウンターの給仕に軽く手を挙げた。
それぞれが自分の分をきっちりと支払い、二人は扉を押して喫茶店をあとにした。
夏の夕陽が、通りを長く照らしていた。店先の鉢植えの影が舗道に伸び、蝉の声がかすかに風に乗って聞こえてくる。
茉莉花は、日傘を軽く肩にかけ、まっすぐ前を見て歩き出した。




