四十一話
七月も終わりに近づいた土曜の午後、霞ヶ関の空は、どこかぼんやりと白んでいた。じりじりと照りつける陽の気配はないが、空気はぬるく湿っていて、歩道に沿って立ち並ぶ建物の壁面が、その熱を黙って吸い込んでいる。
大蔵省の庁舎を出ようとした茉莉花は、正面玄関をくぐる寸前、事務室の扉から顔を出した若い職員に呼び止められた。
「朝倉さん、課長が呼んでおられます。少しお時間よろしいですか」
この日で応援勤務は一区切りを迎える予定だった。二月の派遣期間が終わり、来週からは再び逓信省に戻る。荷物の整理もすでに終え、引き出しの中は空になっていた。
茉莉花は鞄の持ち手を握り直し、静かに頷くと、案内されるまま課長室の戸を叩いた。
中では、五十代半ばほどの初老の男が、眼鏡越しに書類へ目を落としていた。顔の皺や背筋の硬さに、いかにも中央官庁らしい古風さが滲む男だったが、その視線は茉莉花が入室するのを認めると、ゆるやかに上がった。
「……来てもらって悪かったね。少し話がある」
促されるまま、茉莉花は静かに椅子に腰を下ろした。指先の緊張を押し隠しながら。
「君、朝倉さんだったね。――二ヶ月間、よくやってくれた。本当に助かったよ。書類の精度も翻訳の速さも、我々の期待をずいぶん上回っていた」
「……もったいないお言葉です」
「君のような人材なら、我が方でも正式に迎えたいという声が上がっている。もちろん逓信省とも調整が要るが、こちらとしては強くお願いしたいと思っている」
その一言に、思わず背筋が伸びた。
「……本当ですか?」
「ああ。九月から正式に異動、という形になると思うが、詳しい辞令はまだ少し先になる。ただし、来週からは一度逓信省に戻ってもらう。あくまで内々の話だから、周囲にはまだ伏せておいてほしい」
「……承知しました」
言葉を口にする瞬間、茉莉花の中で何かが静かに弾けた。やってきたことが無駄ではなかった、という実感が、背骨の奥からじんと沁みてくる。
誰に認められなくとも、私がやってきたことは、価値がある――。
けれどこうして、誰かが「必要だ」と言ってくれる瞬間は、やはり嬉しかった。
「ちなみに、給料もこれまでよりずっと良い条件を用意するつもりだ。自立の一助になればと思ってね」
課長のその言葉には、にわかには出せない色があった。彼女が何のために努力しているか、まるで全て分かっているようだった。
茉莉花は軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。……精一杯、勤めさせていただきます」
応接を辞し、石造りの建物の階段を降りる頃には、白んだ空がやや青味を増していた。
日陰のアスファルトにはじっとりと湿気が残り、午後の風は汗ばんだ頬にぬるくまとわりつく。
門を出て、少し歩いたそのときだった。
「おや、これは奇遇ですね――茉莉花さん」
肩越しからかけられたその声に、茉莉花は瞬時に足を止めた。振り向かずとも、誰の声かは分かっていた。
案の定、すぐ後ろの石垣の影から現れたのは、藤色のネクタイを緩めた早瀬俊哉だった。夏の陽気に似合わず、麻の上着を羽織った姿はどこか無造作で、それでいて妙に洗練されている。
「……また、偶然ですか?」
「いえいえ。偶然を装って待っていたのです」
「――それは最早、待ち伏せでは」
「おや、そんな物騒な響きにしなくても。今月のお食事、まだでしたからね」
そう言って、彼は肩をすくめて見せた。悪びれた様子もなく、飄々と笑う。
茉莉花はため息をひとつついた。
「忘れてくださればよかったのに」
「まあまあ、そう仰らずに。今日は、なにやら良いことがあったようですし」
その台詞に、茉莉花は一瞬だけ眉をひそめた。まさか、と思ったが、さすがに俊哉にもそこまでの情報はないはずだ。
「……喫茶店の一つくらいなら、付き合っていただけますね?」
そう言って差し出された手には、切符ではなく、小さな扇子が握られていた。ひらりと風を送るように一度だけ仰がれたその扇に、茉莉花は観念したように首を縦に振った。
喫茶店の扉を開けたとき、かすかにレコードの音が流れてきた。柔らかな木の香りと、午後の陽を遮るレースのカーテン。
ささやかな店内の静けさのなか、茉莉花はアイスティーを注文したが、俊哉はケーキを追加した。
滞在時間を引き延ばす気だ、と気づいたが、何も言わなかった。
「来週から、茉莉花さんには会えなくなりますねえ。寂しくなりますよ」
茉莉花は視線をカップの縁に落としたまま、静かに答えた。
「私は、もともと逓信省の人間ですから」
「ええ、知っています。……でも、たとえそうでも、二ヶ月も同じ職場にいれば、そりゃあ情も湧きますよ」
「情、なんて……大げさですね」
「いえいえ。朝の廊下ですれ違って、ほんの一言かわすだけでも、結構楽しみにしていたんですよ。あれが、もうないとなると……」
まるで本気で惜しんでいるかのように嘆く俊哉を、茉莉花は半眼で睨んだ。
「――私のほうは、せいせいしますけれど」
「これは手厳しい。別れの席にしてはずいぶん冷たいお言葉ですね」
俊哉が肩をすくめて言うと、茉莉花はすっと視線を上げた。
「別れだなんて。……だいたい、毎月一度は食事に付き合えって条件を出したのは、あなたのほうじゃありませんか」
その声音には、皮肉混じりの呆れがにじんでいた。俊哉は一瞬だけ目を細め、苦笑を浮かべた。
「それは失礼。では、来月も変わらずご一緒いただけると信じております」
その調子のいい言い回しに、茉莉花は軽くため息をつく。
テーブルの上には、氷が溶けかけたグラスと、注文したまま手つかずのレモンケーキ。午後の光がレース越しに差し込み、木目の卓に柔らかな影を落としている。
ふいに、俊哉が少し声の調子を変えて訊ねた。
「……ところで、お母様のご様子はいかがですか?」
茉莉花は、一拍遅れて顔をしかめた。返事の代わりに、こくりと小さく首を振る。その動きには、言葉にしなくとも分かる拒絶の色があった。
「毎日のように聞いてきます。今度はいつ会うのとか、お父様が元気なうちに話を進めないととか。……もう、うんざりですが」
「……あの調子では、そうでしょうね」
俊哉は、苦笑というよりも、どこか達観したような笑みを浮かべた。先日の応接間で綾子が見せた熱っぽい態度が、脳裏に蘇ったのだろう。
そのまま、ふと指先でカップの縁をなぞりながら、静かに尋ねた。
「……お父上は、ご存じなのですか? この交際について」
その問いに、茉莉花は少し迷ってから、姿勢を正した。
「母が、勝手に伝えてしまいました。あの子には交際している方がいるのよって」
言い淀み、グラスに指を添えたまま、言葉を探すように視線を落とす。
「……でも、私は、父には本当のことを言いました。嘘をついたままでは……父の目にはすぐ分かってしまうと思って。理解のある職場の人が、少しのあいだ協力してくれているだけだと話してあります」
「まあ、お父上は茉莉花さんの生き方を尊重してくれるとおっしゃっていましたし。それでいいのでは?」
しかし、茉莉花は続ける。
「あの時には言いませんでしたが、父は過労で入院しているんです。母への秘密を、父に一緒に背負わせてしまった。それが少し、申し訳なくて」
淡々とした口調だったが、その声音には、自らの判断に対する責任と、父への誠意が滲んでいた。
俊哉は黙って茉莉花を見つめた。瞳の奥に、ごくわずかに影が落ちる。
そして、俊哉の表情が、ごく僅かに、曇った。
その陰りを、茉莉花はしっかりと捉えた。




