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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第三部:知代編
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四十話

 霞ヶ関の空気は夜になっても重く、石造りの建物の間にこもった熱が、歩く足元からじわりと立ちのぼってくるようだった。


 帳簿を抱えて省の門を出た孝太郎は、咳をひとつ押し殺してから、電灯の光が滲む夜道へ歩き出した。


 身体は疲れていた。意識の輪郭すら曖昧になるほどの疲労だったが、思考だけは不思議と冴えている。

 帰宅の電車の中、目を閉じていても、次々に浮かんでくるのは数字ではなかった。


(あれが、始まりだった)


 春先のことだった。叔父から強く勧められた見合いの席。

 断る理由も、通す気力もなかった。縁談の相手――美世子との会話は何も心に残らなかった。ただ、無難に場が流れていくだけだった。


 けれど、知代と出会ったあの瞬間に、すべてがひっくり返された。


 冷遇されながらも意志を曲げずに生きているその姿は、どこまでも真剣で、どこまでも強かった。


(……焦っていたのだ、あのときの私は)


 利害の一致。必要とされる役割。条件の交換。

 そうした言葉で自分を納得させていたはずだった。


 だが、あの結婚を申し込んだときの自分は、どこか常軌を逸していた。

 冷静沈着が取り柄だったはずなのに、何故か焦りに駆られて先を急いでしまった。


 師範学校に通わせたのは、彼女のため、そして形式上の妻を手に入れた自分の義務――そう考えるようにしていた。

 彼女が島田家にやってきてからも、礼節と距離を守ってきた。若い妻に、必要以上の干渉をしないこと。それが自分の思いやりだと思っていた。


 けれど――それは本当に彼女のためだったか。


(距離をとっていたのは、私の方だった)


 自分の感情が揺れることを恐れたのだ。揺れてしまえば、穏やかさが保てなくなると思っていた。


 なのに。


 旅行の日、あの人は無邪気に笑い、何もかもが新鮮だというように、景色のひとつひとつに目を輝かせていた。


 「目をつむりますから」などと、ふいに口にして、風呂に一緒に入ろうなどと、言い出したとき。自分の口から、そんな言葉が出たことに、自分でも驚いた。


 湯気の向こうにいた、彼女の存在。背負ったときの軽さと、背中越しの熱。


 それらを思い出すたびに、今でも胸がざわめく。理性のタガが外れそうになるのを、あの夜、何度必死で押しとどめたことか。


(……危うかった)


 自分を律してきたはずの理性が、あのときばかりは歪みかけていた。


 そして、あの誕生日の夜。まさか、自分のために贈り物を選んでくれていたとは、夢にも思わなかった。


 差し出された小さな包み。


「お金は孝太郎様からいただいたものですのに」

「お使いの色と違っていたかもしれません」


 そう言って、おずおずと謝る彼女の声。

 ――本当は、そんなことはどうでもよかったのに。

 どんな色でも、どんなものであっても。

 あなたが、私のために選んでくれた。それだけで、十分だった。


(それを、言えたらどれほど良かっただろうか)


 けれど、口を開けなかった。


 自分から愛のない結婚を提案しておいて、いまさらそんなことを言えば、彼女を戸惑わせ、困らせてしまうだろう。


 知代は、形式としての「夫婦」の中で、きちんと役目を果たそうとしてくれている。

 こちらが勝手にその線を越えれば、彼女の誠意を裏切ることになる。


(……許されるはずがない)


 自分が望んだのは「穏やかさ」だった。愛は要らないと、最初に線を引いたのは、他ならぬ自分なのだから。


(……今さら、何を夢想しているんだ)


 自嘲が、胸の奥に冷たく広がる。


 もしも最初から、まっすぐに彼女を想い、言葉を尽くして向き合っていたなら――

 そんなことを想像する自分が、いちばん傲慢で、身勝手だ。


 電車が停まり、家の最寄り駅のホームに立ったとき、夜風が背広の裾を揺らした。

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