四十話
霞ヶ関の空気は夜になっても重く、石造りの建物の間にこもった熱が、歩く足元からじわりと立ちのぼってくるようだった。
帳簿を抱えて省の門を出た孝太郎は、咳をひとつ押し殺してから、電灯の光が滲む夜道へ歩き出した。
身体は疲れていた。意識の輪郭すら曖昧になるほどの疲労だったが、思考だけは不思議と冴えている。
帰宅の電車の中、目を閉じていても、次々に浮かんでくるのは数字ではなかった。
(あれが、始まりだった)
春先のことだった。叔父から強く勧められた見合いの席。
断る理由も、通す気力もなかった。縁談の相手――美世子との会話は何も心に残らなかった。ただ、無難に場が流れていくだけだった。
けれど、知代と出会ったあの瞬間に、すべてがひっくり返された。
冷遇されながらも意志を曲げずに生きているその姿は、どこまでも真剣で、どこまでも強かった。
(……焦っていたのだ、あのときの私は)
利害の一致。必要とされる役割。条件の交換。
そうした言葉で自分を納得させていたはずだった。
だが、あの結婚を申し込んだときの自分は、どこか常軌を逸していた。
冷静沈着が取り柄だったはずなのに、何故か焦りに駆られて先を急いでしまった。
師範学校に通わせたのは、彼女のため、そして形式上の妻を手に入れた自分の義務――そう考えるようにしていた。
彼女が島田家にやってきてからも、礼節と距離を守ってきた。若い妻に、必要以上の干渉をしないこと。それが自分の思いやりだと思っていた。
けれど――それは本当に彼女のためだったか。
(距離をとっていたのは、私の方だった)
自分の感情が揺れることを恐れたのだ。揺れてしまえば、穏やかさが保てなくなると思っていた。
なのに。
旅行の日、あの人は無邪気に笑い、何もかもが新鮮だというように、景色のひとつひとつに目を輝かせていた。
「目をつむりますから」などと、ふいに口にして、風呂に一緒に入ろうなどと、言い出したとき。自分の口から、そんな言葉が出たことに、自分でも驚いた。
湯気の向こうにいた、彼女の存在。背負ったときの軽さと、背中越しの熱。
それらを思い出すたびに、今でも胸がざわめく。理性のタガが外れそうになるのを、あの夜、何度必死で押しとどめたことか。
(……危うかった)
自分を律してきたはずの理性が、あのときばかりは歪みかけていた。
そして、あの誕生日の夜。まさか、自分のために贈り物を選んでくれていたとは、夢にも思わなかった。
差し出された小さな包み。
「お金は孝太郎様からいただいたものですのに」
「お使いの色と違っていたかもしれません」
そう言って、おずおずと謝る彼女の声。
――本当は、そんなことはどうでもよかったのに。
どんな色でも、どんなものであっても。
あなたが、私のために選んでくれた。それだけで、十分だった。
(それを、言えたらどれほど良かっただろうか)
けれど、口を開けなかった。
自分から愛のない結婚を提案しておいて、いまさらそんなことを言えば、彼女を戸惑わせ、困らせてしまうだろう。
知代は、形式としての「夫婦」の中で、きちんと役目を果たそうとしてくれている。
こちらが勝手にその線を越えれば、彼女の誠意を裏切ることになる。
(……許されるはずがない)
自分が望んだのは「穏やかさ」だった。愛は要らないと、最初に線を引いたのは、他ならぬ自分なのだから。
(……今さら、何を夢想しているんだ)
自嘲が、胸の奥に冷たく広がる。
もしも最初から、まっすぐに彼女を想い、言葉を尽くして向き合っていたなら――
そんなことを想像する自分が、いちばん傲慢で、身勝手だ。
電車が停まり、家の最寄り駅のホームに立ったとき、夜風が背広の裾を揺らした。




