三十九話
九月に入ると、空の青さがどこか高く澄んで見えるようになった。
本郷の坂道には秋の虫の声がしきりに響き、風にのって金木犀の香りがわずかに混じる。知代の通う師範学校では、夏休み明けの慌ただしさが戻り、毎朝の登校と授業準備が再び日々を埋めていった。
島田家にも、同じように静かな慌ただしさがあった。
孝太郎は秋の予算関連で、霞ヶ関に詰める時間がぐっと増え、夜の帰宅が遅くなる日も多くなった。
時には書類を抱えたまま週末に出勤することもあり、かつての日曜の縁側での談笑すら、思い出のように遠く感じられた。
ある日曜日の午後――知代はひとり、縁側の籐椅子に座っていた。
机の上には教科書とノートが開かれている。けれど筆は進まず、ただ風の音ばかりが耳を撫でていく。
硝子越しの庭には、つねが植えた朝顔がまだ細々と咲いていて、日が傾くたび、花が静かにしぼんでいくのが見えた。
(……また、今日も、帰ってこられないのかしら)
胸の奥で、ふと小さなものが沈んだ。
もともと、期待していたわけではない。孝太郎は仕事に誠実な人だし、自分も学校がある。日々の忙しさは、お互いさまだ。
でも――
(……さびしい)
その言葉が心に浮かんだとき、自分でも驚いた。
寂しい、なんて。
そんなこと、これまで感じたことはなかった。感じてはいけないとも思っていた。
けれど今日は、胸の奥がぽっかりと風に吹かれるように、空虚だった。
彼がいないだけで、部屋の空気が少し違って感じる。
ふと視線を落とすと、自分の手のひらが目に入る。そこには、あの夜に触れたぬくもりの記憶が、まだ淡く残っている気がした。
旅行の日、衝立越しに聞こえた低い声。目を瞑っていても感じた、あの気配。背負われたときの、広くてやわらかな背中。
そして、誕生日の夜、包まれた手の感触と、こちらを見据える綺麗な目――
それらのひとつひとつが、まるで胸の奥に火を灯していくようだった。
(……わたし、孝太郎様のこと……)
言葉にならない想いが、胸の中にぽたりと落ちた。
それが恋というものなのかは、知代にはまだうまくわからなかった。
けれど、これまで山のように読んできた小説に描かれていた、恋愛というのは、こういうものではなかったか――そんな気がした。
(……好き、なのかもしれない)
そう思った瞬間、心の奥にふわりと広がるあたたかさと、同時に、どうしようもない不安が押し寄せた。
その想いが、自分の胸の内にあったことを、今さらながらに気づく。
(……もっと、喜んでほしかった)
ただ、礼儀としてのお礼ではなく。
心から、嬉しそうに笑ってほしかった。――いや、笑わせたかったのかもしれない。
(……そんなこと、考えちゃいけないのに)
知代は、両手をそっと胸の前で握りしめた。
結婚の日。孝太郎ははっきり言っていた。
恋愛には関心がない。求めるのは、穏やかな家庭。それ以上のものは望まない、と。
それなのに、自分はどうだろう。
彼の好意を期待して。言葉の裏を探して。触れた手の温度に意味を求めて。
(……浅ましい)
自分の中に芽生えていた感情を、まるで誰かに見られたような気がして、知代は顔を伏せた。
与えられてきたものに、感謝していたはずだった。
師範学校に通わせてくれていること。書斎の本を自由に読ませてくれること。
いち家庭の「妻」としてでなく、「個」として扱ってくれること――それが、どれほど稀で、どれほどありがたいことか、知代には痛いほどわかっていた。
でも。その先を、心のどこかで求めてしまった。
(……私が間違っているんだ)
目を閉じると、孝太郎の横顔が浮かんだ。静かで、理性的で、感情に溺れることのないひと。
その穏やかさに惹かれたはずなのに、今の自分は、その穏やかさに、そっと波を立ててしまいたいと願っている。
――それは、あまりにも勝手なことではないか。
その時、玄関先の呼び鈴がなった。つねは買い物に出たはずだから、自分が出なければと急いで階段を降り、扉を開ける。
「久しぶりね――」
開けた扉の先にいたのは。
「お姉様」




