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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第三部:知代編
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三十八話


 その日の朝――八月の終わりとはいえ、日差しはまだ柔らかい夏の名残を宿していた。

 朝餉の後、片付けを終えた知代が縁側を拭いていると、台所からふいに弾むような声が聞こえた。


「知代様、今日はちょっと張りきって、少しばかりご馳走にしようかと思うんですよ」


 ふり返ると、つねが真新しい前掛けを手に、どこか浮き立ったような笑みを浮かべている。


「あっ、もしかして」


「ええ。旦那様のお誕生日でしょう? いつもは何でもないような顔をしてはりますけれど、やっぱり一年に一度のこと。せっかく知代様もいらっしゃるのですしね、今年は少し違ってもいいんじゃないかと思って」


 知代は、ふと胸がじんわりと温かくなるのを感じた。

 あの人が、普段どれだけ静かに日々を過ごしているかを知っているからこそ、こうした小さな祝いが、どれほど貴重であるかがわかる。


 つねは手をぬぐいながら言葉を継いだ。


「それでね、ちょっと変わり種ですけれど……今日はケーキを買ってみようかと思いまして。実は、近くの喫茶店で洋菓子も売っているんですのよ。知代様も、ご一緒にいかがです?」


「……はい。ぜひ」


 うなずいた知代の声は、どこか嬉しさにふわりと弾んでいた。


 午後、陽が少し傾き始めた頃、ふたりは連れだって本郷通りを歩いた。


「旦那様、昔からあんまり自分の誕生日って気にされないんですよ」


 つねは、何気ない口調で話しはじめた。


「同年代のご友人も少なかったようで。早瀬さんくらいでしょうか、毎年のように『たまには飲もう』って誘ってくれて」


「……そうだったんですね」


(今年は、少しでも特別な日になりますように)


 そう、心のなかでそっと祈った。




 喫茶店の扉を開けると、甘い洋酒とバターの香りがふんわりと立ちのぼった。

 硝子のショーケースには、チョコレートのかかった小さなケーキや、杏ののったタルト、まるくて可愛らしいレモンケーキが並んでいる。


「うわぁ……どれも美味しそう」


「ふふ、こういうときは迷ってしまいますね」


 最終的に選ばれたのは、控えめな甘さのモカケーキと、栗のクリームをあしらった小ぶりなモンブラン。知代が包みを受け取る手元には、自然と力がこもっていた。


 


 ――その夜。


 食卓には、つねが腕をふるった祝い膳が並んでいた。

 鯛の塩焼きに、帆立のかき揚げ、小芋と湯葉の炊き合わせ。それから、ひと口サイズの赤飯と、彩りを添えた三つ葉のお吸い物。

 知代が器を並べると、ふと孝太郎が静かに目を細めた。


「……これは、またずいぶんと」


「つねさんが、今日は特別ですからと」


 控えめに言ったつもりだったが、つねはすかさずにっこりと笑ってみせた。


「ええ、もちろんですとも。旦那様のお誕生日ですもの。おふたり並んでの初めてのお祝い、私にとっても嬉しいことで」


 そう言って、いつもより少し長く席に残ったつねは、湯呑を手にして話に加わった。三人で囲む夕餉は、普段よりもにぎやかで、けれどどこか穏やかだった。


 食後、湯飲みに代わって茶碗が下げられ、代わりにケーキがそっと出されたとき、孝太郎は一瞬だけ目を丸くした。


「……これは、また」


「たまには甘いものも、よろしいでしょう?」


 つねが茶目っ気たっぷりに言うと、孝太郎は苦笑をこぼし、モカケーキの皿を手に取った。


 フォークで静かに一口運ぶ。甘さは控えめで、コーヒーの香りがほんのりと広がった。


「……こういうのも、たまにはいいですね」


 その言葉は、ごく普通に聞こえたけれど――


(……喜んでいただけているのかしら)



 そして、夜も更け、家の灯がすっかり落ち着いた頃――


 知代はひとつ深呼吸をしてから、布団の敷かれた寝室へと向かった。ふすまの隙間から漏れる灯りは、仄かに畳の上に影を落としている。


「……少し、よろしいですか」


 そう声をかけると、布団の脇で文を読んでいた孝太郎が、ゆっくりと顔を上げた。


 知代は、そっとその向かいに膝をつく。両手には、昼間買い求めた、紺のインクの包みがあった。


 「……今日が、お誕生日だと伺って。お祝いに……その……ささやかなものですが」


 そう言いながら、膝の上でおずおずと包みを差し出した。包みは和紙で静かにくるまれており、淡い水引がかすかに光を反射している。


 孝太郎は、わずかに目を見開いた。言葉を失ったまま、視線だけがゆっくりと贈りものに降りていく。


(やっぱり、気に入らなかったのかしら)


 知代は一瞬、胸が詰まるような思いにかられた。たしかに、彼の使っていたインクとまったく同じものは見つからなかった。だから近い色を選んだけれど――


「あの……すみません。……孝太郎様からいただいたお金で、勝手に……」


「それに、同じ色が見当たらなくて……お好みに合わなかったら、どうしようかと……」


 言葉が尻すぼみになっていく。知代は視線を伏せたまま、手のなかの包みを引き戻そうとしたそのとき――


 ふと、手の上に重なるものがあった。


 孝太郎の手だった。


 包みを、そしてそれを差し出す知代の両手ごと、彼はゆっくりと包み込んでいた。


 ぬくもりがじんわりと伝わってくる。けれど、それ以上に驚いたのは、目の前の彼のまなざしだった。


 まっすぐに、こちらを見ていた。


「……ありがとうございます。大切に使わせていただきます」


 孝太郎の声は、思いのほか深く、静かに胸へ染みてきた。


 知代は、そっとうなずいた。


 彼の手が、自分の手を包んでいたぬくもりを、指先がまだ覚えている。


 それだけで、じゅうぶんに報われる気がした――けれど、胸の奥では別の想いが、静かに膨らんでいた。


 言いたい言葉が、喉元までせりあがってくる。


 でも、それを口にしてしまったら。


 いまの、この穏やかな距離――形式のなかで保たれている、静かな日々が、どこか軋んでしまうかもしれない。そんな予感が、知代の胸にふっと影を落とした。


 一歩、踏み出せば、何かが変わる。


 けれど、変わったあとの世界が、いまより優しいとは限らない。


「おやすみなさいませ」


「……おやすみなさい」


 孝太郎もまた、何かを言いかけて、やめたのだ。


 それは、ごく小さな躊躇――でもたしかに、声の裏に揺れていた。


 灯を落とした部屋に、夜の静けさが沁みこんでいく。


 虫の音も、風の気配も、この夜ばかりは遠い。


 隣り合う布団の間に横たわるのは、まだ名もない感情の断片だった。


 声にならなかった想いが、ひとつずつ折りたたまれて、ふたりの間に静かに積もっていく。


 それは、幸福のかたちをしていたけれど、かすかに脆く――


 眠りに落ちるその瞬間まで、どちらも、胸のどこかに、冷たいしずくのような不安を残していた。

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