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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第三部:知代編
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三十七話

 八月最後の日曜日――蝉の声もいつしか遠のき、代わりに空高く渡る雲のかたちに秋の気配が滲みはじめていた。


 知代は朝からそわそわと身支度を整えていた。濃い藍色の絣の単衣に、白地の小花模様の帯をきゅっと結ぶ。鏡の前で何度か結び直しながらも、心はどこか落ち着かない。


(……ちゃんと見つかるかしら、あの色のインク)


 孝太郎が書斎で愛用している黒漆の万年筆。

 あの人が手紙を書くとき、帳簿に何かを記すとき、決まって使うのが、やや青味を帯びた濃紺のインクだった。


 俊哉からの「誕生日」の知らせを受けてから、知代はずっと考えていた。気取った贈りものは似合わない。でも、日常のなかで使うものならきっと喜んでもらえる――そう思ったとき、自然とその青いインクの瓶が思い浮かんだ。


 万年筆やインクなら、神保町の文具店に並んでいるはず――文子や茉莉花から、よく話を聞いていた書店街のすぐそばだ。


 そのとき、ふと廊下の奥から、草履の音が近づいてきた。


「お出かけですか?」


 振り返ると、孝太郎が扇子を片手に、居間のほうから歩いてきた。普段の仕事着よりもいくらかラフな、薄手の羽織を羽織っている。


「え、ええ。今日は……茉莉花と、少しだけ」


 言いながら、視線をわずかに逸らしてしまう。嘘は言っていない――けれど、すべてを言っているわけでもない。


 孝太郎は軽く頷き、廊下の柱にもたれて扇子をたたんだ。


「そうですか。……それではお帰りの頃に迎えに行きましょうか」


 その申し出に、知代の肩がぴくりと跳ねた。


「えっ……い、いえっ、あの、けっこうですっ!」


 普段の調子からは信じられないほど急いだ声に、孝太郎がぽかんと瞬いた。知代自身も驚き、あわてて両手を振って取り繕う。


「いえ、あの、その、茉莉花と、ええと、たまにはゆっくり歩きたいといいますか、その……寄り道などもして、ええ、はい」


 必死の言い訳を重ねるうちに、顔がじわじわと紅潮してくる。


 孝太郎はしばらくその様子を眺めていたが、やがてほんの少しだけ口元をゆるめた。


「……そうですか。では、気をつけて。あまり遅くならないようにしてください」


 「ありがとうございます」と頭を下げる知代に、彼はまだ少し不思議そうな表情を浮かべながらも、何も言わずに見送った。


(……あんなに動揺するほどの外出とは、何だったのだろうか)


 背を向けて玄関へ向かう知代の姿を見送りながら、孝太郎は扇子の骨をぱちりと鳴らし、しばし首をかしげていた。




 神保町の裏通りに入ると、書店の並ぶ通りとはまた違った落ち着いた空気が漂っていた。

 夏の陽射しはまだ強いが、路地に入れば風は涼しく、古い石畳を草履の音が控えめに響く。


「知代!」


 小さな文具店の前で、白い日傘を掲げた茉莉花が手を振っていた。

 薄紅の絽の着物に、焦茶の帯をきりりと締めたその姿は、都会の午後によく馴染んでいる。


 知代はぱっと顔を綻ばせて小走りに駆け寄った。


「急なお願いでごめんなさい。来てくれてありがとう」


「いいえ、私も会いたかったから嬉しかったわ」


 にこりと笑ったその笑顔に、知代はほっと胸を撫で下ろした。


「それで……島田さんに贈り物を買いたいのね?」


「でも、ちゃんとしたものを買うなんて、初めてで……あの……少しだけ、心細くて」


 そう言って顔を伏せる知代に、茉莉花はくすりと笑った。


「ふふ……それ、すごく知代らしい。でも大丈夫よ、ちゃんと付き合うわ」


 手を引かれるようにして入った文具店は、間口は狭いものの、奥行きがあり、整然と並んだ棚のひとつひとつに職人のこだわりが感じられた。


 硝子越しに並んだインク瓶、ペン先、万年筆。静かな店内には墨のような香りがほんのり漂っている。


「……こんなにたくさんあるのね」


 知代は圧倒されたように小声を漏らした。よく磨かれた棚の中には、赤、青、緑、琥珀――さまざまな色が並び、ラベルもすべて違う。


「島田さんの使ってるのと、まったく同じものは……うーん、やっぱりないみたいね」


 茉莉花は棚の中を慎重に見比べながら、視線を走らせている。知代も隣で並ぶ瓶を一つ一つ手に取っては、光に透かしてみた。


(あの方の使っているのは、黒に近い青……でも、もっと深い、夜の川のような色だったような)


 やがて、ひとつの瓶が目にとまった。少しくすんだ濃紺――それは晴れた夜にだけ見える、澄んだ空の色のようだった。


「……この色、なんだか、孝太郎様に合っている気がする」


 知代がそっと呟くと、茉莉花も横からその瓶をのぞき込んだ。


「落ち着いていて、でも青みがある分、冷たくない……そうね、悪くないと思うわ」


 そして、知代の横顔を見てふっと笑った。


「……本当に、あなたって人は」


「……えっ、な、何か変だった?」


「いいえ、ぜんぜん。でも、そうやって一生懸命に誰かのために選ぶ姿を見ると、何だかこちらまで嬉しくなってくるのよ」


 知代は、頬がかすかに熱を帯びるのを感じながら、小さく笑った。


 選んだインクは、舶来のもので、少し値は張ったが、月三円のなかから大事に残していたお金で、ちょうど買える額だった。


「……これにします。包んでいただけますか」


 店主に丁寧に頼むと、渋い色合いの和紙と金の水引で、控えめながらも品のある包装を施してくれた。

 それを手に取った瞬間――知代の胸の奥に、ほんのりと灯がともるような感覚が広がっていった。


(……喜んで、もらえるだろうか)


 不安もある。けれど、それ以上に、贈りたいという気持ちが確かにあった。


 人生で初めて、自分の意志で選んだ贈りもの。その小さな重みが、紙包みを通して、掌にやさしく伝わってきた。




 買い物を終えたふたりは、帰り道の途中、小さな甘味処に足をとめた。


 暖簾をくぐると、店内にはかすかに煮た小豆の香りが漂い、竹の簾越しにやわらかな午後の光が差し込んでいた。

 四角い木の卓に腰を下ろすと、女中が氷水とともに、涼やかなうぐいす餅と白玉を運んできた。


「……こういうお店、久しぶりかも」


「たまには良いでしょう? せっかくの外出ですもの」


 茉莉花は白玉をすくいながら笑った。知代も、少し遠慮がちにうぐいす餅に箸をつけ、ふわりとした甘さにそっと目を細めた。


 しばらく甘味を味わったあと、知代は小さな声で、切り出した。


「ねえ、ちょっと聞いてもいい?」


「ん?」


「早瀬さんのこと……あの、ふりの件、今は……」


 言いながら、視線をそっと落とす。母親の縁談話を断るために、俊哉にたきつけられて交際していると嘘をついた茉莉花――あの手紙に記されていた、短くも切実な一行。


 茉莉花は、白玉の匙を口に運んだまま、目をぱちりと瞬かせた。


「ああ……あれね」


 そして、ちょっとだけ眉をひそめて、ため息をついた。


「まったく、あんなやつの手なんか借りるんじゃなかったわ」


 言いながらも、口調にはどこかユーモラスな響きが混じっていた。

 演技が思いのほか板についてしまい、母が本気で信じてしまったこと、それに俊哉本人がどこか楽しんでいたような顔をしていたこと……今になってみれば、苦笑するしかない。


「でも……」


 知代は匙を置き、言葉を選びながら続けた。


「偽りとはいえ、そこにいてくれた人が早瀬さんでよかったんじゃないかしら」


 そのひとことに、茉莉花の動きがぴたりと止まった。


「え?」


 思わず声が漏れる。驚いたように、知代の顔をまじまじと見つめた。


「あなたが、島田さん以外の男の人を褒めるなんて、初めて聞いた気がして」


「べ、べつに褒めたわけじゃ。こ、孝太郎様のことだって」


 そういってあわあわする知代を、茉莉花は微笑んで見つめた。

 知代には、対価として毎月の食事を命じられたことは話していない。

 知代が主人の友人として俊哉とそれなりに仲良くしているのなら、余計なことは言わない方がいいと思った。


「じゃあ、また近いうちに」


「ええ、付き合ってくれてありがとう」


 知代が頭を下げると、茉莉花はくすりと笑って手を振った。


「手紙、楽しみにしてるわよ。例の贈りものの反応も」


「っ……う、が、頑張るわ」


 あわてて答える知代に、茉莉花は肩を揺らして笑いながら、すっと踵を返した。

 ふたりは、またね、と手を振り合って、それぞれの帰路についた。


 道の端に揺れる秋桜が、夕映えのなかで細く揺れていた。


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