三十六話
八月も終わりに差しかかるある日の昼下がり、蝉の声はすこしばかり勢いを失い、代わりに庭の隅ではコオロギが早くも秋の訪れを告げはじめていた。
午睡を終えたつねが静かに針仕事をしている隣の部屋で、知代は文机に向かい、一通の手紙を開いていた。
封筒の端に見覚えのある筆跡を見つけたとき、胸の奥がふわりと熱を帯びる。
茉莉花に旅先で選んだ小さな手鏡とともに、ささやかな挨拶状を添えて送った、その返事が来たのだった。
封を開けると、便箋には茉莉花らしいきびきびとした文字で、礼の言葉と近況が綴られていた。鏡はとても気に入ったとあり、「わたしが使うのはもったいない気がして、化粧台の引き出しに大切にしまってあるの」と、ほんの少し頬を緩めたような語り口が続く。
だが、手紙を読み進めていくうち、ふと一枚の別紙が挟まっていることに気づいた。
(……これは)
そこには、まるで慎重に折りたたまれた、どこか懐かしい紙の質感と、つたないながらにあたたかな丸みを帯びた文字――
花だった。
数ヶ月前の春の朝、自分が島田家へ嫁いでいくその門出に、ただ一人、目を潤ませて送り出してくれた人。
あのとき交わした視線と、声にならなかった「どうかお幸せに」が、紙の上にふたたび宿っていた。
村井家に手紙を直接送ることははばかられた。だから茉莉花に託した小さなてぬぐいとともに、久しぶりの便りを送ったのだ。
知代は、両手でそっと手紙を広げた。丁寧に書かれた花の言葉は、歳月を感じさせる筆跡でありながらも、どこかふんわりとしたぬくもりに満ちていた。
――知代様が今、穏やかに暮らしていると聞いて、うれしゅうございます。
(……花)
文字のひとつひとつに、懐かしさと、確かな愛情がにじんでいた。何も求めず、ただ無事を、幸せを祈ってくれる人――その存在が、心の深いところをそっと包みこんでくる。
夏の光が障子の隙間から差し込み、白い紙の上に細かな影を落としていた。硝子戸の向こうでは、風にそよぐ朝顔の鉢が小さく揺れている。
(わたしは、いま……幸せなのだ)
それは声に出さずとも、胸の奥で確かに形を持って響いた。
生家では決して味わうことのなかった、無償のまなざし。嫁いでからの日々のなかで、少しずつ手にしてきた静かな幸福。
そのすべてが、今この手紙に見守られているような気がした。
知代はそっと手紙を畳み、小さな文箱のなかに大切にしまった。香の残り香がふわりと立ち上り、部屋の空気がやさしく包まれる。
机の端に置かれた小さな白磁の水差しに、つねが今朝摘んできた撫子が一輪。淡い紅色の花びらが、やわらかな風に揺れた。
その晩――夕餉を終え、食器を片づけたあとのことだった。
玄関の引き戸が細く開き、「ただいま戻りました」と変わらぬ声が届いたのを聞き、知代は急ぎ居間へ向かう。
いつも通りに迎えの言葉をかけようとしたそのとき、孝太郎が片手に何かを掲げた。
「郵便受けに入っていました。……茉莉花さんからですよ」
手に握られていたのは、一通の封筒だった。
「え……?」
知代は、やや間の抜けた声を漏らしてしまった。たしかに、昼下がりに茉莉花からの便りを受け取ったばかりだったはずだ――にもかかわらず、また手紙?
だが、表情には出さぬまま、静かに手紙を受け取った。
孝太郎は特に気に留める様子もなく、風呂場のほうへと歩いていく。
手にした封筒を見つめながら、知代はゆっくりと歩を進め、自室の障子をそっと閉めた。
卓上の灯をつけ、封筒の隅に目を落とすと、そこにはたしかに「朝倉茉莉花」と記されている。
――けれど、その文字は。
(……茉莉花の筆跡、じゃない)
数年来の付き合いで見慣れている、あのきっぱりとした字形とは異なる。これは……男性の、しかもどこか「形を気にしていない」筆跡。
封を切ると、中から現れたのはどこか気取りと軽やかさが同居する文面だった。
《自分の名で出したら、また島田が「何が書いてあったのか」と訊くに決まっているでしょう。ご迷惑かけぬよう、配慮してみました》
――一文目から、思わず吹き出しそうになる。
《さて、今回のご用件はひとつ。来週の火曜日、島田の誕生日です。本人は間違いなく何も言わないでしょうが、知代さんは知りたいんじゃないかと思って》
知代は手紙を両手で持ったまま、静かにまぶたを伏せた。
(……孝太郎様の、誕生日)
自分にとって、それはまだ遠い場所の出来事のように思っていた。けれど、あの穏やかな背中に湯船越しの静かな声――それを思い出すと、胸の奥にやわらかな光が差してくる。
(……何か、贈り物をしたい)
心のなかで、そっとそう思った。
机の端に置いていた、書きかけの茉莉花への返信をもう一度取り出す。便箋の余白にはまだ少し空きがある。そこに、知代は丁寧に筆をとった。
――今週末、もし時間があれば、少しだけお買い物に付き合ってくれませんか。
――贈りものを、探したいのです。
そうして文を閉じると、知代は封筒にそっと便箋を収めた。
明朝に出せば、おそらく週末には間に合う。蝉の声はもう、ほとんど聞こえなかった。かわりに、夜風に混じって、小さな鈴虫の音が聞こえていた。
季節は、静かに移ろっていく。
そして――心のなかの何かもまた、少しずつ、けれど確かに、変わりはじめていた。




