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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第三部:知代編
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三十五話

 朝の空気はひんやりとして、開け放たれた硝子戸の外からは、杉の香りを含んだ風がすうと流れ込んでいた。

 ふわりと薄布団を押しのけて身を起こすと、隣にはきちんと畳まれた浴衣と、静かに茶を啜る孝太郎の姿があった。


「おはようございます。あの、昨日は、途中で寝てしまって……」


 まだ少し熱の残る顔でそう告げると、孝太郎は茶を置き、目を伏せたまま言った。


「お気になさらず。……たくさん歩きましたし、疲れて当然です」


「……ありがとうございます」


 言葉を交わしながらも、どこか、ほんのわずかに気恥ずかしい気配が漂う。

 孝太郎の脳内には、湯船で感じた隣の気配と、背中にもたれかかる柔らかいあたたかさがこびりついて離れなかった。


 そんな生ぬるさを断ち切るように、孝太郎は時計に目をやった。


「今日は早めの列車で帰りますが、その前に土産を見てみましょうか。つねに何か喜びそうなものを」


「はい」




 昼前、ふたりは日光駅近くの土産屋が並ぶ通りを歩いていた。

 並ぶのは、手ぬぐいや柚子味噌、漆塗りの箸、地元の細工物や、木の香りのする小箱。


「これ、つねさんの好みに合うでしょうか?」


「良いと思います、それにしましょうか」


 ふたりで土産を選びながら、ふと知代が口にした。


「あの、早瀬さんにも何か買って差し上げたほうが……」


 その一言に、孝太郎の手の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。


「……彼の分は、私が選びます」


 そうですか?と首をかしげる知代。孝太郎は自分の中で芽生える気持ちを、少しだけ自覚せずにはいられなかった。


 そして、再び歩き出して、別の棚の前に差しかかったとき、知代は小さく口を開く。


「茉莉花にも何か買って帰ってもいいでしょうか」


 遠慮がちに聞かれたその言葉に、孝太郎はもちろんと軽く答えた。もとよりそのつもりであったし、知代に聞かれなくても買っていただろう。

 しかし、知代はさらに言いにくそうにしながら続ける。


「……それと……花にも、何か買っていけたらと思いまして」


 その声は低く、ためらいを含んでいた。


「花さん……?」


 孝太郎は聞き返した。耳慣れない名だった。咄嗟に思い浮かばず、知代の横顔をじっと見つめる。


「はい。――村井家でお仕えしていた人で、私に唯一、優しくしてくれた大人でした」


(……ああ)


 孝太郎は、ふいに思い出した。

 あの春の日、村井家から知代が去るとき、玄関の奥から目を赤くして顔を半分だけ覗かせていた年配の女中の姿。


(あの方だったか)


「……それも、もちろん」


 そう口にしかけたところで――

 孝太郎はふと、あることを思いついた。


「知代さん、これから毎月、三円、お渡ししましょう。俺に許可を取らなくても、好きなことに使えるように」


「……三円も?」


 知代はその額を確かめるように繰り返し、そして目を丸くした。


「それは、いただけません。わたしは、こうして学校にも行かせていただいて、生活のことも……こんなふうに旅行まで……それ以上は、もったいないくらいです」


 きっぱりとした口調だったが、どこかに戸惑いもにじんでいる。

 孝太郎は小さく息を整え、まっすぐに言葉を探した。


「……本来であれば、妻に自由になるお金をいくらか渡すのは……夫の、義務とも言えるのですが――」


 そこで言いかけた言葉をふと飲み込み、言い直した。


「……違いますね。これは、いつも家をあたたかく守ってくださっている、お礼です」


「でも、それは……つねさんが……」


 知代が言いかけたその言葉に、孝太郎はすっと目を細めた。


「ええ。ですからつねには給金を払っています。ですが、知代さんにも自由になるお金があった方がいいと私は思います。それが、互いにとって、より対等な関係というものではないでしょうか」


 知代は言葉に詰まった。

 何かを返そうとして、うつむいて、また口を閉じた。


 (……わたしが、対等)


 これまでの人生で、そんなふうに扱われたことがあっただろうか――

 その響きが胸の奥に静かに降り積もっていく。


「……でも、それでもやっぱり……」


 そう、なおも渋る知代に、孝太郎はふっと言葉を継いだ。


「……では、こうしましょう」


 知代が顔を上げる。


「そのお金で、たまに何か本を買ってください。そして、もし読まれたら……私にも貸してもらえますか」


 それは、とても穏やかで、静かな提案だった。押しつけがましくもなく、遠回しでもなく――ただ、自然な気持ちのままに。


 知代は、一瞬目を見開き、それから、ふっと肩の力が抜けるように――にこりと、微笑んだ。


「……はい。ありがとうございます」


 真夏の陽差しのなか、土産物屋の軒先にかかる風鈴が、涼やかに鳴った。

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