三十四話
貸切風呂の札を手に、ふたりは廊下を歩いていた。
硝子戸の外では、夕暮れの空にうっすらと星が浮かび始めている。
風呂場までの道は、ほんの数十歩――なのに、やけに長く感じた。互いにどちらからも目を逸らし、襖に手をかけるまで、ただ無言で歩いた。
(まさか、こんな形で……)
知代は胸の奥がそわそわと落ち着かず、襟元に指を添えて小さく息を吐いた。
最初は断固として譲るつもりだった。この家の主人は孝太郎なのだから、彼が入るべきだ――それが一番自然だと、そう思っていた。
けれど、孝太郎は視線をわずかに外したまま、口ごもるように言ったのだった。
「……その、女将さんの……気配りを無にするのも、心苦しいですし……」
「……?」
「……ぜ、絶対に、見ませんので」
その言葉に、知代は思わず目を丸くしたが、すぐに言葉をのみこんだ。
――その姿が、あまりに誠実で、不器用で、そして孝太郎らしかったから。
風呂場は、板張りの廊下を抜けた先にある、檜造りの離れだった。
湯気の立つ小さな脱衣場の先には、すでにお湯が張られた浴室があり、中央には衝立が一枚、しっかりと立てられていた。
衝立の片側に座ると、知代は手桶でそっと湯をすくい、身を清めはじめた。
(静か……)
湯のはじける音と、たまに立てる桶の音だけが、二人の間にあった。
話さない。見ない。考えないように――と思うほど、耳が、肌が、敏感になっていく。
やがて、「……入ります」と静かに声がして、知代も「はい」と小さく返した。
約束通り、目は閉じたまま。衝立の向こうからまわり込み、すこし距離をあけて湯船に浸かる。
湯の中で、言葉の代わりに、鼓動のような沈黙がふたりのあいだに流れた。
「あたたかい……ですね」
ぽつりと知代が言った。
「ええ」
孝太郎の声はいつもよりも少し低く、けれどやわらかかった。
「……日光って、こんなに静かなんですね。夜になって、虫の声しか聞こえなくなるなんて」
「東京とは、空気の質が違いますから。……でも、それもたまには、いいものです」
「……はい」
湯の温度と、その静けさと、隣にある気配。目を閉じていても、確かにそこにある――そんな不思議なぬくもりを感じた。
浴衣を羽織った知代は頬がほんのりと赤く、歩みがややふらついていた。
「……少し、のぼせたかもしれません」
「……部屋に戻って休みましょう。こちらへ」
タオルを手に取りながら、孝太郎が促す。知代は断ろうとしたが、そのとき足がふらつき、壁に手をついた。
「……やはり、背負います」
「い、いえ、それは……!」
「構いません」
孝太郎はきっぱりと言い、知代の前にしゃがんだ。知代は戸惑いながらも、やがてそっと背中に身を預けた。
(……あたたかい)
湯の温もりよりも、もっとやさしい何かが、背中越しに伝わってくる。
歩き出した孝太郎の肩越しに、廊下の灯がやさしく揺れる。知代は、やがてその肩に頬を預けるようにして、そっと目を閉じた。
そのまま、すう、と眠りに落ちていく――
旅の夜は、やわらかく、そして穏やかに更けていった。




