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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第三部:知代編
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三十三話

 上野駅は朝から活気に満ちていた。


 乗り換え口に立ち並ぶ荷物持ちたち、駅弁を売る少年の声、旅行鞄を手にした家族連れや軍服姿の青年。

 蒸気機関車の汽笛が鋭く響くたびに、胸の奥が高鳴る。


「こちらです。……段差にご注意を」


 孝太郎が自然と腕を差し出し、知代を導いた。


 案内されたのは、二等車の座席。深いえんじ色のビロード張りのベンチに、真鍮の肘掛け。

 開け放たれた窓からは、すでに夏の日差しがさしこみ、風が走り抜けていった。


「こんなに……人がたくさん」


 思わず知代が呟くと、孝太郎はやわらかく目を細めた。


「夏の盛りですから、皆、山へ向かうのでしょう。日光は避暑地としても人気がありますからね」


 汽車がごとんと大きく揺れて、車輪の音が走りはじめた。


「……本当に、旅に出るんですね」


 呟いたその声には、どこか夢の中にいるような響きがあった。


 東京の街並みが遠ざかるにつれ、風景が変わっていった。畑の間にぽつぽつと農家の屋根が見え、やがて山の緑が濃くなる。

 沿線の竹林が風に揺れ、川の流れがちらりと見え隠れする。


 車内で出された温かい煎茶と駅弁――たけのこご飯に、卵焼き、きんぴらごぼう。何もかもが、知代には新鮮だった。


「……ずっと、行ってみたかったんです。こういう旅に。私はお留守番ばかりでしたから」


 知代は笑って言ったが、その瞳の奥にあるものを、孝太郎はふと見つめた。


「今日の旅が、良い記憶になるといいのですが」


 その言葉に、知代は静かに頷いた。



 日光駅に着くと、空気が一段とひんやりとしていた。


 東京では感じなかった涼やかな風が、頬を撫でていく。駅舎の白い石造りが陽光を反射して眩しく、木々の緑は深く、静けさの中に格調のある空気が漂っていた。


「……なんだか、空気が違います」


「標高も高いですから。東京より五度ほど涼しいでしょう」


 駅前には人力車が並び、夏の装いの紳士淑女が、案内人に従ってそれぞれの旅館や寺社へと向かっていく。

 二人が人力車を借り、杉の木立を抜けて、まず向かったのは東照宮だった。


「……ここが、徳川家康公を祀った社ですね」


 石段の下に立った知代は、深く息を吸い込んだ。杉の香りと湿った石の匂いが、鼻腔を抜けていく。


 石段を登ると、陽明門の彫刻の精巧さに、思わず言葉を失う。唐獅子、鳳凰、龍に麒麟。極彩色の木彫が陽の光を浴びてきらめいていた。


「……これが、江戸の威信というものなのでしょうか」


「建築としても装飾としても、当時の粋が集められていますね」


 孝太郎が淡々と言うその口調に、どこか愉しげな響きがまざっていて、知代は思わず笑った。


「でも、こうして一つひとつを見ていると、細かいところに物語があるみたいで……目が離せませんね」


「たとえばあれ、見えますか。見ざる・言わざる・聞かざるの三猿」


「あっ……本当に」


 学んできたことを自分の目で見られるという体験は、知代にとっては新鮮だった。


 ふたりは肩を並べて、静かに社殿を巡った。御神木の根元には、地元の子供が描いた絵馬が吊るされており、知代は一つ一つを見ては笑みを浮かべた。


 そのあと、ふたりは橋を渡り、川沿いをしばらく歩いた。透き通るような水の音、杉の香り、蝉の声――すべてが東京とは違う、澄んだ音と色に満ちていた。


「……知代さん、疲れていませんか」


 孝太郎がふと立ち止まって尋ねる。知代は小さく首を横に振った。


「いいえ。……もっと歩いていたいくらいです」


 それは本音だった。


(こんなふうに、景色を見て、美味しい空気を吸って、静かに歩く――それだけで、こんなに心が満たされるなんて)


 並んで歩く足音が、ふたつでひとつの拍子を打つように心地よく聞こえた。




 夕餉の膳には、目にも鮮やかな料理が並んでいた。

 山菜のお浸し、川魚の塩焼き、湯葉の刺身、地鶏の味噌鍋――

 盛り付けられた小鉢の一つひとつに、宿の心づくしがにじんでいる。


「……こんなに丁寧なお料理、いただいたことがありません」


 知代は目を細め、箸の先にある湯葉をそっと口に運んだ。しっとりとした食感が舌に広がり、思わず小さな息が漏れる。


「美味しい……」


「ええ。確かに、美味しいですね」


 孝太郎は、焼きたての岩魚を骨ごと丁寧に外しながら、ふと静かな口調で続けた。


「でも俺は、知代さんの料理を食べるのが一番、落ち着くかな」


 知代は、その言葉に箸を止めて、孝太郎の横顔を見た。


「……ふふふ」


 少し素の出た口調に、気づけば、頬がゆるんでいた。


「……じゃあ、これからは学校がある日でも、たまに作ります。つねさんに相談して、無理のない範囲で」


 孝太郎は、目を合わせぬまま「それは助かります」とだけ言ったが、口元がわずかに緩んだのを、知代は見逃さなかった。


 食後のひととき、部屋に茶が運ばれてきた頃――


「ごめんなさいねえ、ちょっとご案内が遅くなっちゃって」


 廊下の方から、女将がぱたぱたと現れた。


「実はね、大浴場のほうが昨日の雷で屋根の一部がやられてしまって、修理の間、使えないんですよ」


「雷、ですか?」


「ええ、近くの杉に落ちたみたいで。煙だけで火は出なかったんですけど、屋根が少し剥がれてしまって」


「それは大変でしたね」


「お客様には申し訳ないんですが、代わりに裏手の離れにある貸し切りの小浴場をお使いいただいてます。一部屋あたり三十分の交代制なんですが、よろしいですか?」


 孝太郎と知代は、同時に顔を向け合い、わずかに目を見開いた。


「三十分だと……二人、別々には入りきらないかもしれませんね」


「……知代さんが、どうぞ」


「いえ、それは……孝太郎様のほうが。お仕事の疲れを癒すためのご旅行ですから」


「でも、あなたにとっては初めての温泉でしょう? それなら……」


「そういうわけにはいきません、孝太郎様が」


 互いに譲り合う様子に、女将はぽかんと目を丸くし、それからふっと肩を揺らして笑った。


「まあまあ、初々しい。新婚旅行かしら?」


「いえ、それは……」


 知代が頬を染めかけると、女将は茶目っ気のある声で続けた。


「恥ずかしいなら、洗い場に衝立でも置いておきますよ。湯船は広いし、お湯は新しく張っておきますから」


 そして、くすくすと笑いながら部屋を出ていった。


 静かになった部屋に、蝉の声が遠くに響いている。互いに目を合わせることができず、ふたりはただ、ちゃぶ台の湯呑みに視線を落とした。

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