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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第三部:知代編
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三十二話

 その晩、知代は夕餉の支度を整え、硝子戸の向こうに立つ影に気づいて玄関に出た。


「おかえりなさいませ、孝太郎様」


 迎えの声に、孝太郎は小さく頭を下げながら草履を脱いだ。


「……ただいま戻りました」


 いつもの返答――けれどその声に、わずかな間があった。知代は言葉を返しかけてふと戸惑う。どこか視線が定まらないというか、少し……気まずそうな空気。


(……何かあったのかしら)


 一瞬不思議に思うが、心当たりは一つしかない。

 夕食の膳を挟んで、煮びたしに箸をのばしながら、知代は思いきって口を開いた。


「今日、早瀬さんが面白い話を教えてくれました」


「面白い話?」


 孝太郎は箸を置いて顔を上げる。その瞬間、知代は確信した――この話題を待っていたのだ、と。


「エレベーターで……重い荷物を持ったまま何度も譲って、結局階段を駆け上がったとか」


 呆気に取られたような顔でひと呼吸おいたあと、孝太郎の口元がかすかにゆるんだ。


「……彼、話しましたか、それを」


「ええ」


「……まったく、余計なことばかり吹き込む」


 ぼやくような声のあと、ふと頬が和らぎ、笑いが漏れる。


「ですが、まあ……笑い話にしてくれるなら、それもよし、ですね」


 知代は、胸をなでおろすように微笑んだ。重くならず、笑ってくれたことが、思いのほか嬉しかった。


 けれど、孝太郎の心は、どこかざわついたままだった。

 彼がここにその時間、ふたりはどんな話をしたのだろう。知代の表情には何の変化もないが、それが却って気にかかる。

 まさか、そんな滑稽な話だけして帰ったわけではあるまい。


 早瀬のことは信用している――それでも、胸の内側に、さざ波のようなざわめきが止まない。


(……まったく、何を気にしているのか、自分でもわからない)


 孝太郎はそう思いながら、茶碗の底を見つめていた。




 数日後の朝、庭に下ろされた簾を揺らして、つねが久しぶりに戻ってきた。


「ただいま戻りました。……まあ、お二人とも、お元気そうで」


「つねさん、お帰りなさいませ」


 知代はぱっと顔を明るくし、孝太郎も穏やかな笑みを浮かべて会釈する。

 つねは手ぬぐいで汗をぬぐいながら、腰をかばうように立っていたが、顔色はよく、口調も元気だった。


「こんなに休んでしまって、申し訳ないことで。……せめて、お詫びに一通り、家の大掃除をしておきます。なので、お二人で旅行でもどうです?今しかありませんよ」


「旅行……?」


 知代が目を瞬かせると、つねはにこりと笑った。


「年末年始はおそらく大混雑。暑くても、今の方がまだ動きやすいですよ。知代様も学校がお休みですし、旦那様も……今が少し、手が空く頃でしょう?」


 その言葉に、孝太郎と知代は思わず顔を見合わせた。


「……確かに、今なら調整ができそうです」


 孝太郎は小さくうなずき、少し考えるように目を伏せた。

 やがて、知代の方に視線を向け、真面目な口調で言った。


「最近、知代さんのために時間を作れていませんでした。結婚の日、あなたとの時間を疎かにしないと約束したのに、申し訳ありませんでした。よければ、行きましょう」


 その言葉に、知代はふと、胸の奥にやわらかな熱が差すのを感じた。


(……ああ、嬉しい)


 たとえ短くても、ふたりで過ごせる時間。それは、言葉にならないほど大切に思えた。

 けれど――


(……でも、これは約束したからという義務感なのでは……?)


 どこかでそうも思ってしまう。自分が学校もなく、家にいて、ひとりになることを気にしているのかもしれない。


(それでも、行きましょうと言ってくれたこと自体は……)


 心の中では不安と喜びが、静かに交差していた。嬉しくて、少しだけ不安で、それでも、その気持ちのまま「はい」と返すことしかできなかった。




 出発の朝、つねは門の外まで出て、手ぬぐいで日差しを遮りながらふたりを見送ってくれた。


「どうぞお気をつけて。……水筒の中はまだ冷たいままですよ」


「ありがとう、つねさん。あまり無理なさらないでくださいね」


 手を振りながら知代がそう言うと、つねは「そちらこそ楽しんで」とにこやかに言った。

 知代は、頬にかすかに風を感じながら草履を踏み出した。

 これが、自分にとって――生まれて初めての「旅行」だった。

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