三十一話
蝉時雨が遠くに後退し、午後の日差しが少しずつ傾きはじめていた。
硝子戸の向こうには、風に揺れる葦簾と、静かに冷ました茶がひとつ。
知代はちゃぶ台の縁に指先を添えながら、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……茉莉花は、学生のころから、とても真面目で責任感の強い人でした」
「ふむ」
「女学校では学級委員長をしていて、頼りにされていました。意見があっても、先生に礼を尽くして伝えられる人で……それが、あの年頃にはなかなか難しいことでしたから」
俊哉は、静かに頷きながら聞いている。
「英語学校では、総代を務めていたみたいです。成績も、弁舌も――何より、発音がとても綺麗で」
「想像ができます」
「ええ……それに、好きなもの――たとえば、お店だと、馬車道にある野沢屋のバター飴が好きでした。少し小腹が空いたときに、よくこっそり紙袋から一つつまんでいました」
俊哉は思わず吹き出した。
「へえ……あの人が、そんな可愛げのある一面を?」
「それは、あまり人には見せない顔だったかもしれません」
「ふふ、それは貴重な情報かもしれない」
知代は笑いながら、さらに指を折るように言葉を継いだ。
「それから……かなり西洋風なファッションを好みますが、食事は和食が好きだそうです。あと、和菓子も」
俊哉は、顎に手を当てて小さくうなった。
「……なるほど。今後の食事選びに、かなり使えそうですね」
知代は少しだけ笑って、茶を口に運んだ。陶器の縁が唇に触れる音が、静かに響く。
そして数冊、茉莉花がお気に入りだと話した本の名前を挙げると、知代はちゃぶ台の縁に目を落としたまま、ぽつりと問う。
「……このくらいしかお話しできませんでしたけれど。……期待外れでしたか?」
それは控えめな問いだったが、どこか自分の限界を詫びるような響きを帯びていた。
俊哉はそのまま数秒間、茶碗の中を見つめていたが、やがてゆっくりと首を振った。
「いいえ。むしろ、十分すぎます」
そして、いたずらっぽく片目を細めた。
「もちろん、もっと聞きたかったですよ。あわよくば、心の中まで、なんて」
「……それは、無理です」
「わかってます。だからこそ、今日聞けたことだけでもありがたい」
俊哉は、風鈴の音に紛れるように、静かに笑った。知代もまた、茶碗の中に広がる水面を見つめながら、どこかほっとしたように小さく息をついた。
次は僕の番ですねと言った俊哉は、掌で茶碗を軽く転がしながら、一度視線を遠くへ投げた。
「……島田と出会ったのは、一高のときでした」
茶碗を置き、背筋を伸ばした俊哉の顔は、先ほどまでの軽さとは違う、少し硬いものを含んでいた。
「最初に会ったころには、もう彼の母上は亡くなっていたはずです。詳しくは聞きませんでしたが、何でも一人でしようとするやつでした」
知代は息を呑まずにいられなかった。想像もしていなかった、孝太郎の学生時代の孤独が、少しずつ輪郭を持ち始める。
「お父上のことも、話には出さなかったけど……当時から、忙しい方なんだろうなっていうのは、察しがつきました」
俊哉はふっと視線を落とし、手元の羊羹の欠片をひとつ指でつまんだ。
「亡くなられたのは僕らが帝大に入ってすぐ。僕と仲良くなる、ほんの直前のことでした」
それでも俊哉は話を続ける。言葉を選びながら、丁寧に。
「当時、僕は田舎者だと侮られたくなくてね。同期に食らいつくために、あいつと一緒に法学の課題に無我夢中で取り組んでました」
「孝太郎様も、ですか?」
「ええ、彼を巻き込んだんです。というのも、僕がうっかり講義中に意見を言ったら教授に目をつけられて……来週までに対案をまとめよなんて言われてしまって」
俊哉は苦笑しながら、懐かしそうに目を細めた。
「どうしても一人じゃ太刀打ちできなくて、横で黙ってノートを取っていた島田に頼んだんです。彼は迷いながらも引き受けてくれて……結局、その課題は講義内で最高点をもらいました」
知代の目が丸くなる。
「そのあとで、彼から礼を言われました。あのときは、父を亡くして何も考えられなかったけれど、課題に必死で取り組んだことで、救われた気がしたって」
俊哉の指がそっと、茶托の縁をなぞる。
「僕のほうは、ただ本気でぶつかっていっただけだったんですけどね。でも、都内出身の連中からはがむしゃらすぎて滑稽だって笑われました。いかにも田舎者らしいって」
声に皮肉のような響きが混じる。
「でも、あいつだけは違った。死ぬ気で取り組んでくれて、それでいてちゃんとありがとうと言ってくれた。……あのとき、こいつとなら信頼してやっていけると思ったんです」
知代は、茶碗の湯気の向こうで、そっと息を詰めた。
「ただ……父上の死は、彼に相当な衝撃を与えたようです。しばらくは本当に、誰とも話さないし、必要最低限の生活しかしていなかった。――だから僕は、少しでも彼の心をほぐしたくて、無理やり連れ出したんですよ」
「どこへ?」
「最初は下宿の囲碁会。彼はすぐ飽きてしまってね。次は神保町の活動写真。無口なまま、字幕だけはしっかり追ってた」
俊哉は微笑む。
「将棋も駄目、浪花節も興味を示さず。女の子に目を向けるでもなく、カフェーにも興味なし。結局、唯一楽しんでくれたのは――」
「……美味しいもの、ですか?」
「正解」
いたずらっぽく笑って、俊哉は指を鳴らした。
「洋食、和食、蕎麦や寿司、時には築地まで足を伸ばしてあなご丼を食べたりもしました」
「……それだけでも、素敵な時間ですね」
「ええ。真面目で理屈っぽいけど、黙って美味しそうに食べるんです。感想は一言、うまい、とだけ。でも、それで十分伝わるので。あいつ、上手く伝えられないだけで、知代さんの飯もきっと喜んでますよ」
俊哉が一通り話し終えると、知代は、穏やかな時間のなかで、茶碗を指先でなぞりながらふと尋ねた。
「そうだったんですね。でも……どうして、そんな話を私に?」
俊哉はしばし目を伏せたあと肩をすくめた。
「それはね……僕の、我儘です」
「我儘……?」
「孝太郎は、ああ見えて自分のことをまるで話さない人でしょう? 特に、自分が弱っていた時のことなんて絶対に」
俊哉の声には、どこか懐かしさと、静かな敬意がこもっていた。
「でも、知代さんには――そういうことも、知っておいてほしいと、ふと思ったんです。彼が言わないからこそ、ね」
その言葉に、知代は俊哉の真意をつかめず少し戸惑ったが、静かにうなずいた。
「そう言っていただけたのは……嬉しいです」
俊哉は一度だけ茶碗を手にして、最後の一口を静かに喉に流し込んだ。
「長話をしてしまいましたね。そろそろ、失礼します」
立ち上がった俊哉が玄関へ向かおうとしたとき――
「……あっ」
知代が、小さな声を上げた。
「どうかしました?」
「その……孝太郎様に、今日、早瀬さんと何を話したのか教えてくださいねと言われていまして」
俊哉の足がぴたりと止まる。そして次の瞬間、あっはっはと豪快に笑い出した。
「なるほどね、島田……そういうことを」
「……? 何かおかしかったでしょうか?」
知代がきょとんとした顔で問い返すと、俊哉はすぐに笑いを収め、手で軽く額をなでながら言った。
「いや……いや、何でもないです」
(まったく……自分でも気づいてないんだろうな、あいつ)
俊哉は心の中でそう呟きながら、いたずらっぽい笑みを知代に向けた。
「じゃあ、こう言っておいてください。島田が先週やらかした話を聞かされてましたって」
「……どんなお話ですか?」
「ええ、これは面白いですよ」
俊哉は玄関先で振り返り、帽子を手に取りながら言った。
「先週ね、大きな省内会議があって。島田、例によって分厚い資料を何十部も紙で刷って、自分で抱えて持って行こうとしてたんです」
「……はい」
「で、庁舎のエレベーターに乗ろうとしたら、ちょうど課長クラスの上司が来てね。島田、きっちり一歩下がってお先にどうぞ」
「まあ……」
「ところがその後も、また別の部長が。で、またどうぞ。……ってやってるうちに、結局、島田だけが乗れずに――」
「……えっ」
「大荷物かかえて、階段で七階まで駆け上がったんです」
俊哉は、笑いをこらえるように目を細めた。
「会議室に入ってきたときには汗びっしょりで、しかも最後に到着して、せっかくエレベーターを譲った上司たちが、会議室で待ちぼうけを食らっているという、ね」
「……まあ……」
知代は、手を口元に添えながら、目を細めた。
「ご本人は、一番誠実に行動なさったのに」
「そう、そこが島田のすごいところで、滑稽なところでもある。私の配慮が足りませんでしたって謝ってましたよ。いやもう、誰も責められない」
俊哉は、どこかいとおしそうに笑った。
「じゃあ、そんな話をしてましたって、伝えてくださいね」
「……はい」
知代の声は、小さく、でもどこかあたたかかった。
門を出る俊哉の背を見送りながら、知代は心の奥にそっとしまっていた感情が、少しだけやわらかく膨らんだのを感じていた。




