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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第三部:知代編
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三十話

 しばらくしたある夜の寝室、障子の外では虫の声が細く鳴いていた。


 本郷に移り住んでから、ふたり並んで床に入る生活にも、知代はようやく慣れてきた。

 こうして横になり、隣にもうひとつの寝息があるということ――その穏やかさは、以前の自分には想像もできなかった静けさだった。


「……知代さん」


 静けさの中で、隣から呼びかける声がした。少し迷いを含んだ、落ち着いた声だった。


「はい」


「……少し、相談が」


 知代は横になったまま、やや首を傾けた。


「俊哉が、あなたに用があるそうです。今度の土曜の午後、家に伺いたいと」


「……私に?」


「ええ。ただ……その時間、私は役所に出ていなければならない」


 いつになく言いにくそうに言葉を選ぶその様子に、知代はまぶたの奥を静かに伏せた。


「ほかの日を提案したのですが……どうしてもその日しか駄目だと言って譲りません」


 その言葉に、知代の胸にふっと浮かんだのは、数日前の俊哉とのやりとり――情報交換という半ば冗談のような約束。


(……やはり、あれを)


 静かに合点がいき、知代は小さく頷いた。


「承知しました。その時間、お迎えいたします」


「そうですか……」


 隣の布団からわずかに寝返りの気配がし、掛け布がかすかにさざめいた。

 しばらく沈黙が流れたあと、孝太郎の声がぽつりと落ちた。


「俊哉は、ああ見えて弁えている人間ですが……何かあれば、私から注意をしますので」


 それは、俊哉への信頼と、自分でも気づかぬどこか落ち着かない感情の入り交じった言葉だった。言葉の端にほんのわずかに滲んでいた、名のない焦燥の気配――


「……彼と、どんな話をしたかは……できる範囲で、教えてくださいね」


 少し遅れて続いたその一言は、まるで何気ない確認のようでいて、どこか妙にひっかかりを残す響きだった。


 知代は、不意にふっと笑みをこぼした。そして、心の中でそっと思った。


(……全部は、教えられないだろうなあ)


 それでも。


「……はい」


 そう答えた声は、静かに、でも確かなやわらかさを帯びていた。

 そしてその夜、虫の音と共に流れていく沈黙は、ただ穏やかで、やさしいものだった。




 その土曜の午後――蝉の声も、すでに耳に馴染んできた頃。

 夏らしい水色のシャツと明るい柄のネクタイを締めた早瀬俊哉が、扉の前でにこやかに手を振っていた。


「どうも、訪問をお許しいただきありがとうございます。本当に島田はいないんですね?」


「ええ。今日はお仕事で、戻られるのは夕方以降とのことです」


「ふーん、女中さんもいない。……ねえ、知代さん」


 俊哉は廊下にあがりながら、いたずらっこのような目を向けた。


「こんな日に僕を招くなんて、僕が知代さんに手を出すかもしれないとは、考えなかったんですか?」


 どこか試すような声音だった。けれど知代は一瞬きょとんとしてから、真っ直ぐに俊哉の目を見た。


「……思いませんでした」


 その目は、どこまでも澄んでいた。


「だって、早瀬さんは孝太郎様のご友人でしょう? 信頼されている方が、そんなことをなさるとは……私、考えませんでした」


 俊哉は目を丸くし、それから吹き出した。


「……参ったな。そう言われると、僕がものすごく品のない男に見えてくる」


 彼は柱にもたれかかりながら、からからと笑った。


「でもね、知代さんがおっしゃる通り。僕も、島田だけは傷つけたくないんですよ」


 そして、胸ポケットから小さな風呂敷包みを取り出した。


「今日はこれを持ってきました。豆寅の羊羹。ここのは、少し塩気が利いていて、夏でも食べやすいんです」


「まあ……ありがとうございます」


「さあ、お茶でも淹れてください。あなたの淹れるお茶、きっと美味しいでしょうから」


 俊哉の笑みには、いつもの軽さの奥に、どこか静かな敬意のようなものがあった。

 知代は風呂敷を受け取りながら、どこか不思議な気持ちでその横顔を見つめた。




 ちゃぶ台の上には、切り分けられた羊羹と、湯気の立つ煎茶。蝉の声は遠のき、代わりに風の音が縁先を撫でている。

 俊哉は二口ほど羊羹を口に運び、満足げに喉を鳴らすと、茶碗を手に持ち直して知代を見やった。


「それで……知代さん。情報交換、する気になっていただけましたか?」


 やや芝居がかった声音に、知代は茶碗を置き、静かに笑みを浮かべた。


「……表面的なことだけでしたら」


「というと?」


「もちろん、茉莉花から深い話を聞いたこともあります。でも……それは、あまり人に話していいとは思えませんから」


 俊哉の目が、ふと鋭くなる。だが、知代のまなざしは揺るがない。


「……私は、茉莉花を裏切りたくありません。早瀬さんが、孝太郎様を裏切りたくないとおっしゃったように」


 それは、柔らかい言葉だったが、確かな芯を持っていた。

 俊哉はしばらく黙って知代の顔を見つめ、やがて笑みを浮かべた。肩を軽く揺らしながら、ふと視線をそらす。


「……思い出しましたよ。以前、知代さんにずるい方ですねって言われたこと」


「……ええ、言いました」


「でも今は、僕のほうが言いたいな。知代さんも、十分ずるいですよ」


 いたずらっぽい口調だったが、その声色には責めるような気配はなかった。むしろ、どこか安堵のような響きすらあった。


「……でもね、そういう知代さんだから、僕は安心して話を聞けるんです」


 知代は少し目を見張った。

 俊哉は茶碗を膝の前に置き、膝に両手を載せてゆっくりと言葉を継ぐ。


「僕は、茉莉花さんのことを何も知りません。ただ顔を合わせて、ちょっとやり取りして……それだけ。だから、たとえ表面的なことでも、あなたの口から聞けたら、それだけで十分、価値がある。別に、好きな本とか好きな食べ物とか、そんなもので十分ですよ」


 俊哉の声はいつものように軽やかだったが、その奥には、まっすぐな真剣さが潜んでいた。


「だから、教えていただけますか?」


 知代はしばらく黙っていた。勝手に話したら、茉莉花は怒るだろうか。でも、怒られてもすぐ許してもらえると思えるくらいのことしか、そもそも話すつもりはなかった。

 やがて、知代はゆっくりと顔を上げた。


「わかりました。じゃあ孝太郎様のことも教えてくださいね」


 そして、ふっとやわらかく笑った。

 俊哉もまた、少し力を抜いたように笑みを返す。

 午後の陽は傾き、襖の向こうには風が渡る音だけが静かに続いていた。

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