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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第三部:知代編
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二十九話

 風の流れがわずかに変わったようだった。八月を迎えたばかりの東京は、昼の熱気に反して、朝夕の空気にほんのかすかな涼しさが混じりはじめていた。


 ある朝、つねはいつものように台所に立ったが、瓶の蓋を開ける手がふと止まった。指先が痛むのか、表情にかすかな苦みが滲む。


「つねさん……どこか、お辛いのではありませんか」


 背後から声をかけると、つねは慌てたように肩をすくめ、にこりと笑った。


「まあ、知代様に気づかれてしまいましたか。……少し、節々が痛んでおりますの。年ですねえ、困ったことです」


「どうか無理なさらず。いまは私も休暇中なのですから、しばらくお休みになってください。家のことは、お任せください」


 知代の穏やかな言葉に、つねはしばらく目を伏せたまま黙っていたが、やがて、しみじみとした笑みを浮かべてうなずいた。


「ありがたいことです……それでは、ほんの数日、お言葉に甘えさせていただきます」


 その日は少し早めに支度を整え、帰っていったつねの背を、知代は台所の戸口から見送った。


 昼下がり、畳の上に光がやわらかく差し込むなか、知代は煮炊きの支度をしていた。

 ふだんはつねが手を出させぬよう配慮していた揚げ物にも挑戦し、今日は鶏の竜田揚げと、胡瓜の酢の物、小さな出し巻き玉子をこしらえる。


 夕方、門のほうで草履の音が二つ重なって聞こえてきた。知代が玄関に出ると、孝太郎の横に見慣れた快活な男の姿があった。


「ごきげんよう、知代さん。覚えていてくださったでしょうか?」


 にこやかに帽子を取って礼をするのは、早瀬俊哉だった。


「……はい。ようこそ、お越しくださいました」


 知代は少し驚きつつも、柔らかな笑みで迎えた。


「俊哉が、知代さんの料理をどうしても食べてみたいと、しきりに言うので……つい、承諾してしまいました」


 孝太郎が苦笑混じりに言うと、俊哉は目を輝かせて台所の香りに鼻を鳴らした。


「いやあ、台所からいい匂いが漂っていて、もう期待しかありませんよ。何だか、実家に帰った気分です」


 その軽口に知代は小さく会釈をし、食卓へ案内した。俊哉は膳が目の前に並ぶや否や、目を丸くして手を合わせる。


「いただきます……って、これはまた、本当にいい匂いだ。……おお、この出汁巻き、ふわふわだ……!」


 箸を動かすたびに「うまい」「見事」「参ったな」と称賛を口にし、ついには、


「知代さんの手料理を食べられる島田は、ほんと幸せ者ですよ、全く」


 とまで言って、孝太郎の肩を軽く小突いた。


 知代は少し戸惑いながらも、思わず言葉を漏らした。


「……そんなに褒めていただいたのは、初めてかもしれません」


 そのひと言に、俊哉がすかさず眉を上げた。


「えっ?島田、お前、毎日こんな美味いもん食べてて、何も言ってないのか。こりゃあ、だめだなあ」


「……余計なお世話だ」


 孝太郎はぶっきらぼうに答えながらも、顔をそむけるようにして茶をすすった。


 知代はそっと笑みを浮かべた。こうして茶化す俊哉の軽妙さにも、今ではどこか柔らかな親しみを感じ始めている。

 孝太郎がふだん見せない一面を引き出してくれる存在として。


 食後、俊哉が「ちょっと、お借りしますね」と言って便所へ立ったとき、居間にはふたりだけが残された。


 障子越しに風が通り、硝子の皿に残った氷が、かすかに音を立てる。


 ふと孝太郎が口を開いた。


「……いつも、口下手ですみません」


 知代は、驚いて彼を見た。彼はまっすぐに知代を見ず、ほんの少し視線をずらしたまま、続けた。


「……毎晩、美味しくいただいています。本当に、感謝しています」


 その言葉は、どこまでも静かで、誠実だった。


 知代は、そっと唇を結び、そして笑んだ。


「ありがとうございます。そう言っていただけると、嬉しいです」


 彼の言葉には、胸の奥にじんと温かく染み込む何かがあった。


 そのとき、ふたたび廊下に足音が響き、俊哉が戻ってきた。


「いやあ、台所もお手洗いも清潔で気持ちがいい。さすが知代さん、隙がない」


 調子のよい声に、ふたりは顔を見合わせ、ほのかに笑みを交わした。




 食後の食卓には、氷水を入れたガラスのコップが並んでいた。

 明かりを落とした居間には、うっすらと月の明かりが射しこみ、硝子戸の外では風鈴が微かに鳴っている。


 「……失礼、少し電話を」


 孝太郎が立ち上がり、奥の部屋へと向かっていった。


 居間には、知代と俊哉、ふたりだけが残された。静寂が一瞬、空気の重さを際立たせるように流れる。けれどそれを破ったのは、知代のほうだった。


「……あの、早瀬さん」


「はい?」


 俊哉がすぐに顔を向ける。どこか読み取れぬ色を宿した笑顔のまま、いつものように軽く応じた。


「私、茉莉花から聞きました。お母様の前で、お付き合いしてるふりをしたって」


 俊哉の目が一瞬だけ細められた。だが驚く様子はなく、口元に笑みを浮かべたまま、軽く首を傾げる。


「おや、知代さんも、ご存じでしたか。その話、島田にも?」


 たった数日前、茉莉花から届いた手紙には、驚くほど簡潔にそのいきさつが書かれていた。

 気になることばかりではあったが、大蔵省に応援に行ってからは多忙で休む暇もないと聞いていたので、根掘り葉掘り尋ねる手紙を送るのは気が引けたのだ。


「いいえ、孝太郎様には、まだ。……でもなぜ、そんなことを?」


 知代の声には、戸惑いと少しの疑い、そして何よりも心配が滲んでいた。

 俊哉は肩をすくめ、冷たい水を一口含むと、いたずらっぽく言った。


「……でも、知代さんが茉莉花さんから聞いた以上のことは、僕の口から申し上げることはありませんよ」


 そのはぐらかすような言い方に、知代はむっとして視線を逸らす。


「……ずるい方ですね、早瀬さんは」


 俊哉は、そのすねたような声音に、思わず吹き出した。


「すみません。そう言われるのは慣れてます」


 それでも笑いの奥には、どこかやわらかい気配があった。俊哉は姿勢を崩し、少しだけ声の調子を落として続ける。


「……茉莉花さんのこと、やっぱり大切なんですね」


 知代はふと驚いたように顔を上げたが、何も言わなかった。

 ただ、頬にかすかな熱が差していくのを感じながら、視線をそらす。


「……茉莉花は、私の、いちばんの友だちです。昔から……ずっと」


 それはただの返答ではなかった。胸の底からにじみ出る、静かな誇りと親愛の響きだった。


 俊哉はしばらく彼女を見つめ、それから茶目っ気を含んだ笑みを浮かべた。


「……それなら、こうしませんか」


「え……?」


「情報交換。僕に茉莉花さんのこれまでを教えてくれたら、僕からは島田の過去をお教えします」


「……え?」


 思いがけぬ提案に、知代は思わず間の抜けた声を漏らす。


「彼の話、気になっているんでしょう?」


 俊哉は、氷の音を鳴らしながら水をかすかに揺らす。その指先は軽やかでも、声の奥には確かな誠実さがあった。


「いや、知っておいて損はないと思いますよ。彼って、表に出さないことが多すぎますから」


 知代は、唇をそっと引き結んだまま、俊哉の言葉の意味を噛みしめるように黙っていた。

 ちょうどそのとき、遠くから受話器を置くような音が響き、廊下の向こうに孝太郎の足音が聞こえてきた。


 知代は小さく肩をすくめ、再び姿勢を正す。

 このささやかな取引――果たして乗るべきなのか、あるいは。

 その答えを出すには、もう少し、時間が必要だった。

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