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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第三部:知代編
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二十八話

 七月も終わろうというある朝、窓の向こうからは、すでに蝉の声が勢いよく響いていた。


 桐岡女子高等師範学校は、先週末で今学期の全課程を終え、今日から長い夏の休みに入った。朝の空気はもうどこか粘り気を帯び、裏庭のつつじも日差しにくたりと項垂れている。


 知代は、いつものように早起きし、台所で湯を沸かしていた。


「よい成績だったそうじゃありませんか」


 背後からかけられたつねの声に、知代は振り返って恥ずかしそうにうつむいた。


「……ええ、なんとか、上位には入れたみたいで」


「まあまあ、立派なこと。よう頑張らはった」


 ふっくらとした笑みを浮かべながら、つねはお茶の入った湯呑を差し出した。湯気のむこうにその目元が細くなり、まるで自分のことのように嬉しそうに頷く。


「つねさんのお弁当があったからです。あれがなかったら、途中でくじけていたかもしれません」


「まあ、口がうまい」


 冗談めかして笑いながらも、つねはどこか誇らしげだった。


 知代は湯呑を両手に包み込みながら、ふと数日前の帰り道を思い出していた。校門を出たところで文子と顔を見合わせて、「しばらく会えなくなりますね」と話したときの、あの寂しげな笑顔。


 「子どもが楽しみにしてるから、夏はできるだけ一緒に過ごしたいの」と語った文子の言葉が、今も胸に柔らかく残っている。


(……学校が、こんなに長くお休みなのは、久しぶり)


 そう思ったとき、自分の心にある変化にふと気づいた。

 数ヶ月前までは想像もしなかった、制服姿の自分、黒板の前に立つ教師、喧噪の休み時間、筆を走らせる机の感触。

 今ではそれらが、当たり前の生活になっている。


(……ここが、わたしの今の居場所なのだ)


 胸の奥で、そっと言葉にならない確信が芽生えた。


 休暇が始まった日から、知代はつねの手伝いを申し出た。

 野菜の皮をむいたり、洗濯物を干したり、湯の支度をしたり。

 幼い頃から手馴れているはずの仕事でも、ここでの生活ではまた勝手が違っていて、それがどこか新鮮だった。


 昼下がり、日差しがいよいよ強くなるころ、知代は廊下の風鈴の音を聞きながら、書斎の前にそっと立った。


 春に「使ってよい」と言われて以来、何度か立ち入ってはいたが、本棚に並ぶ書籍はやはり敷居が高く、ほとんど手をつけずにいた。


 けれど、今日は。


(せっかく許していただいたのだから、何か一冊……)


 引き戸を静かに開けると、書斎はいつものように整然としていた。

 硝子窓越しに照る午後の光が、背表紙の革に鈍く反射している。

 壁一面の棚に並ぶ本は、いずれも手入れが行き届いていて、どれも知的な威圧感を放っていた。


 知代はそっと手を伸ばした。


 一番上の段にあった、背の高い洋書――ページを開くと、細かな文字が二段に組まれていた。

 イギリスの経済学者による論考らしい。意味は半分もわからなかったけれど、慎重に、言葉を追っていった。


 金本位制の動揺、国家予算の均衡、市場の自律性と制御……

 聞き慣れぬ語彙に苦戦しながらも、それが単なる数字ではなく、人々の暮らしに直結するものだと、知代は直感的に理解した。


(……こんなに難しいことを、孝太郎様は、毎日……)


 堅牢な言葉のひとつひとつに、あの人の静かな理性と、誠実なまなざしが重なる気がした。

 無口で、表情の変化も乏しいけれど、その内にはいかに多くのものを受け止めているのだろう――そう思うと、自然と胸が熱を帯びていった。


 頁を閉じたときには、外の光が少し傾きはじめていた。

 風が抜けるような静かな書斎のなか、知代はしばし、本の上に両手を置いて目を閉じた。


 その指先には、静かだがたしかな敬意と、どこか誇らしさに似た温もりが、じんわりと残っていた。




 陽が沈み、硝子戸の向こうに灯がひとつ、またひとつとともりはじめた頃。


 知代は、白い割烹着を身にまといながら、台所の流しに置かれた木の盆を整えていた。

 芋と冬瓜の炊き合わせ、小さな鯵の南蛮漬け、青菜のお浸しに、冷やした葛切り。買い物から下ごしらえ、盛りつけに至るまで、今日はすべて知代がひとりで整えた。


(……大丈夫。失敗はしていない、はず)


 背筋をのばして息をひとつ吸い込んだところで、玄関のほうから草履の音が聞こえた。


「ただいま戻りました」


 穏やかに響いたその声に、知代はすぐに身を返す。


「おかえりなさいませ。お疲れさまでした」


 廊下に迎えに出た知代は、そっと頭を下げた。孝太郎はいつも通りの表情で頷き、黒革の鞄を玄関の棚に置いて、片手で額の汗をぬぐった。


「……今日は、少し暑さがきつかったですね」


「お顔、火照っていらっしゃいます。冷たい手拭いをお持ちします」


「ありがとうございます。……ああ、それと」


 ふと孝太郎が立ち止まり、知代の顔をやわらかく見た。


「今日はつねが早く帰ったそうですが……」


「はい。今日は……私が」


 ほんのわずかに言葉を区切ったあと、知代は顔を伏せた。

 まっすぐに見つめ返されるのが、なぜだか恥ずかしかった。


 孝太郎は、口元に笑みを浮かべた。


「……それは、楽しみですね」


 その一言が、知代の胸にふわりと灯をともす。


 褒められたわけでも、特別な感情を向けられたわけでもない。

 それでも、自分のしたことを肯定されるというのは、どうしてこんなにも嬉しいのだろう――


 食卓には、すでに湯気の立つ汁椀と、丁寧に並べられた菜が置かれていた。ふたりは向かい合って座り、静かに箸を取る。

 音の少ない食卓のなかで、時折ふとした拍子に視線が重なるたび、知代の胸の奥がふわりと波立った。


「……実は、今日、書斎の本棚を少し覗かせていただきました」


 食後、湯呑を手にしてから、知代はそっと切り出した。孝太郎は驚く風もなく、やわらかに頷く。


「ええ、自由に使ってくださいと申し上げた通りです」


「はい。ありがとうございます……あの、本当に、知らない本ばかりで」


 知代は、両手で湯呑を包んだまま、思い出すように目を細めた。


「難しそうですけれど、でも、孝太郎様がよくお読みになっているような経済学の本など、読めたら楽しいだろうなあって」


 そこまで言いかけて、ふと知代の顔が曇った。


「……あ、ごめんなさい。私が読むべきでは、ありませんでしたよね」


 女性が政治や経済を学びたいなど、出過ぎた真似だと思われただろうか。

 だが、返ってきたのは、低く落ち着いた、やさしい声だった。


「そうは思いません」


 知代は思わず顔を上げた。孝太郎は、真っ直ぐな目で彼女を見つめていた。


「読みたいなら、読めばいい。興味があるなら、どの分野であれ、知ることに意味はあります」


 その言葉には、感情の押しつけも、咎める気配も一切なかった。ただ、ごく静かな理知と、揺るがぬ誠意だけがあった。


「……わからないことがあれば、できる限り、私がお答えします」


 その一言が、どれほど大きな贈り物だったことか。

 知代は、心の奥からふっと熱がこみあげてくるのを感じながら、小さく頷いた。


「……はい。ありがとうございます」


 またひとつ、ささやかだけれど確かな何かが、ふたりの間に芽生えていた。名前をつけるには、まだ早すぎる。

 でも、それはまぎれもなく、温かな絆のようなものだった。


 風鈴がひとつ鳴り、夜の帳が、そっと本郷の家を包みはじめていた。


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