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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第二部:茉莉花編
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二十七話

 隣駅からほど近い裏通りに、その喫茶店はあった。


 表通りの喧噪から少し外れた静かな場所で、軒先には小さな鉢植えと木製の看板が出ている。

 硝子越しに見える店内には、白いクロスのかかったテーブルと籐の椅子が並び、昼どきには程よく賑わいがあった。


「ここ、何度か来たことがあるんですよ。落ち着いていて、料理も悪くない」


 そう言って先に戸を開けた俊哉が、茉莉花を中へと促した。気取った様子はないが、どこか慣れた動きだった。


 案内された窓際の席に腰を下ろし、給仕が水を運んでくるのを待つあいだ、茉莉花は内心の警戒を緩めぬまま、周囲をちらと見渡す。


「サンドイッチがいいですよ。パンが自家製で、ハムも厚めに切ってあって」


 俊哉がそう言った瞬間、茉莉花は少しだけ顔をしかめた。


 ――食べようと思っていたのに、先に言われると興が削がれる。


 まるで相手の思惑に乗ったようで、なんとなく癪に障る。メニューを開き、目に止まった別の品を指さす。


「私は、オムレツにします」


「……ああ、それ。実は僕の本当のおすすめなんですけどね」


 間髪入れずに俊哉が言い、微かに笑う。茉莉花は露骨に不機嫌な顔になった。


「どうして先にそれを言わなかったんですか」


「言ったら、きっと注文しなかったでしょう?」


 からかうような口調ではあったが、どこか図星を突かれたようで、茉莉花は黙ってメニューを閉じた。


 ふと、窓の外に視線をやりながら、軽く問いかける。


「ずっと横浜にお住まいだったんですか?お会いしたことはありませんでしたけど」


 俊哉は、水を一口含んでから答えた。


「いいえ、尋常小学校の頃はもっと田舎でした。中学に上がるときに、親の都合でこちらに越してきたんです。ただ、家は茉莉花さんのご実家とは少し離れていましたけど」


「へえ」


 茉莉花は、眉ひとつ動かさずに相槌を打つ。俊哉の言葉に、嘘はなかった。けれど、どこかにわずかな含みがある気がした。


「高校からは一高に入りましたから、東京で下宿していたんです。だから、横浜にちゃんと住んでいたのは数年間だけ。……このあたりを地元というには、ちょっと微妙な距離感ですね」


「昨日、知代から聞いたんですか、私たちが横浜の出身だって」


 わざとらしく無関心を装って、茉莉花が尋ねる。俊哉は少しだけ目を細めた。


「そうですね。彼女から、ちらりと」


 やはり、と茉莉花は思った。自分が横浜にいると知っていて、偶然を装っただけなのだ。

 ただ、どうして――と続けようとして、言葉を呑む。

 俊哉はその沈黙を、あえて追及しようとはしなかった。




 オムレツは、ふわりとした卵の中に炒めた玉葱と刻んだハムが包まれていて、皿の端には鮮やかなケチャップが添えられていた。


 店内にはバターの香りが漂い、陽の光が窓辺から柔らかく差し込んでいる。

 木製のテーブルに揃えられた白い食器と、控えめな音量で流れるクラリネットのレコードが、ささやかな静けさを形作っていた。


 茉莉花がナイフを入れると、中からとろりとした黄味がわずかに溢れた。


「お母様には先ほどお会いしましたが、茉莉花さんからはご家族の話をあまり聞きませんね。他の方はどんな方なんです?」


 質問を返されて、茉莉花は少し言葉を選んだ。家庭の話を軽々しくする気にもなれないが、ここで押し黙るのはあまりに不自然だし失礼すぎる。


「父はとても真面目な人で、朝早くから夜遅くまでずっと働いています。でも、患者さんにはどんな人にも優しいし、家でも怒ったりしたことは一度もありません。……私が女学校に進みたいと言った時も、さらに進学したいといった時も、反対するどころか自分の道を歩みなさいと応援してくれました。女性でも、自分で考えて、自分の足で歩くことが大事だって。そう言ってくれる父が、私は……とても、誇りです」


 言葉の端に、自然な温もりがにじむ。

 厳しい現実をよく知っている彼女だからこそ、そういう存在がどれほど大切か、しみじみと思い知らされる。


「……それは、いいお父上ですね」


 俊哉が呟くように言った声には、柔らかな羨望が混じっていた。

 普段の調子の良さとは異なる、思わず漏れた本音のような響き。


 だが茉莉花はその機微には気づかず、続けて言った。


「兄もいますけど、いまは大学附属の病院で働いていて、朝早く出て、夜遅く帰ります。小さい頃は、勉強を教えてもらったり、一緒に本を読んだりしたものです」


「なるほど。……素敵なご家庭だ」


 俊哉はふっと目を伏せた。さりげない風を装っていたが、その横顔にかすかに寂しげな影が差した。


「まあ、母はここ最近ずっと、あんな感じですけどね」


 その言葉に、俊哉は先ほどの綾子の様子を思い出し、ふっと笑った。



 外では街路樹の葉が風に揺れ、春の陽射しがガラス越しに揺らめいていた。

 会計を済ませて店を出ようとすると、俊哉が軽やかに言った。


「ここは僕が」


「結構です。自分の分は自分で払います」


 茉莉花はぴしゃりと言い放ち、袂からきっちり代金を取り出して俊哉の手に押しつけた。

 俊哉は片眉を上げ、芝居がかった口調で言う。


「これは困った。普通の女性なら、ここでご馳走させてくれるのですが……」


「残念でしたね。私は普通の女ではありませんので」


 言い終えると、茉莉花は俊哉の返事を待たず、踵を返して歩き出した。

 晴れ間が差す中、彼女の背中はどこまでも凜として、遠ざかっていった。

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