二十六話
駅までの道を、ふたり並んで歩いていた。
街路樹の影がまばらに落ちる舗道を、茉莉花はできるだけ彼と並ばないよう、少し後ろを歩いた。
俊哉はそんな彼女の気配を意に介するふうもなく、軽やかに歩いている。
「……ずいぶん調子がいいんですね」
茉莉花が仏頂面のまま言い放つと、俊哉はすぐさま、少しばかり芝居がかった声を上げた。
「おやおや。助けて差し上げたのに、お礼のひとつもないとは。これは冷たい」
軽口のつもりか、あるいは本気でそう思っているのか――そのどちらともとれる表情で、彼は肩をすくめた。
茉莉花は無表情のまま立ち止まることもなく歩を進める。
「……あまりの調子の良さに感心して、お礼を失念していました。ありがとうございます」
声に抑揚はない。言葉の内容と裏腹に、感謝のかけらも感じさせないその口調に、俊哉はふっと笑った。
「いやいや、光栄です」
その笑いに含まれる余裕が、茉莉花にはどうにも癇に障った。
「――ところで」
茉莉花は足を止めずに尋ねた。
「借りを作ったことになるとおっしゃいましたけど、私に何をしてほしいのですか」
去勢を張った中に少しの不安を読み取り、俊哉は心の中でほくそ笑んだが、そんなことはおくびにも出さずに少しだけ顎を上げ、思案するふうを見せた。
「うーん。そうですね、また今度にしようかな。実は特にしてほしいことなんて、ないんですよね」
「……は?」
怪訝な声が漏れる。茉莉花は眉をひそめて俊哉を見上げた。
「返してほしいこともないのに借りを作るなんて、ずいぶん回りくどい趣味ですね」
「趣味ではありませんよ」
俊哉はさらりと返した。そしてそのまま、あの癖のある、何かを面白がるような笑みを浮かべる。
「ただ、茉莉花さんは――人に借りを作るのが苦手そうだな、と思いましてね。だったら、ちょっと試してみたくなったんです」
茉莉花は立ち止まり、思わず顔をしかめた。
「……本当に、性格悪いですね」
「よく言われます」
飄々とした答え。悪びれる様子もなく、それどころか、どこか誇らしげにすら聞こえる。
「今すぐ返したほうが気が楽ですか?」
駅舎が見えてきたころ、俊哉がふと横を見て言った。声はいつもの調子だったが、何かを探るような響きが微かに混じっている。
茉莉花はわずかに顔をしかめながらも、率直に答える。
「ええ。できれば、そうしたいです」
俊哉は「ふむ」と小さく唸り、足を止めた。そして何か考えるふりをするように、目線を空に泳がせてから、言った。
「では――茉莉花さんの、一番の秘密を教えてもらおうかな」
その一言に、茉莉花の足が止まる。
軽口に聞こえるはずのその言葉が、突如として心の奥底に落ちていた重い石を抉り出したかのように、彼女の体を内側から突き上げた。
ほんのわずかの沈黙のあと、茉莉花の唇がきゅっと噛み締められる。目を大きく見開いたその顔には、呆れでも、軽蔑でもない表情が宿っていた。苦痛、あるいは、それに近しい何か。体が、ごくかすかに震えた。
それは、他人が見れば気づかないほどの微細な変化だった。
だが俊哉は、それを見逃さなかった。
「――というのは、冗談として」
すぐさま言葉を継ぎ、あたかも最初から茶化すつもりだったように、肩をすくめて笑う。
「代わりに、もう少し穏当な条件にしておきましょうか。……偽の交際期間が終わるまで、月に一度、僕と食事をご一緒していただく。それだけです」
茉莉花は眉をひそめたまま、俊哉を見つめる。
「どうして、そんなことを」
「カモフラージュですよ。お母様への」
飄々とした声色に、わずかに現実的な色が混じる。
「茉莉花さんはご実家暮らしでしょう?たぶん毎日いろいろ聞かれる。どこで会ったのか、何を話したのか、どんな様子だったか……。そういうことを、全部作り話で塗り固めるのは、なかなか骨が折れる。だから、一つか二つは本当の出来事を混ぜておくといいんです。嘘は、事実の皮を被せるとずっと自然になる」
「……」
「しかも茉莉花さん、あんまり嘘つくの得意じゃなさそうだから」
茉莉花は黙って俊哉を睨みつけた。
俊哉は口元だけで笑った。やや悪びれたふうを装いながらも、底の読めない眼差しは相変わらず涼しい。
「では、了解いただけたと受け取って――今月分、行きましょうか」
「え?」
「今から、昼食に付き合っていただきます。ね、ちょうどお昼時ですし」
その口調には冗談めかしさもあったが、拒絶の余地はあまり感じられなかった。
「……このあたりじゃ、知り合いに見られるかもしれませんが?」
「それも想定済み。隣駅まで行きましょう」
さりげなく配慮を口にしながら、俊哉は改札へと向かう。いつのまにか切符も用意してあった。
茉莉花は、深いため息をひとつついてから、しぶしぶその後を追った。




