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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第二部:茉莉花編
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二十五話

「――お付き合いしている方が、いるのです」


 その場の空気が凍りついたようだった。

 沈黙を破ったのは守山だった。顔を真っ赤にして、口をわななかせていた。


 「はあ?なんだよ、それ……。ふざけんなよ!」


 声を張り上げ、茉莉花を睨みつける。

 「最初からそう言えよ」「俺を馬鹿にしてんのか」「こんな男が相手って、正気かよ」といった言葉が、怒りの泡のように口から次々に溢れ出た。


 通りを歩く人々が、何事かと立ち止まり、目を向ける。

 そのなかで俊哉は、まるで春先の猫のように優雅な面持ちで言った。


「彼女がそう申しているのなら、それがすべてです。どうぞ、お引き取りを」


 声音はあくまでやわらかだったが、目の奥に鋭い光が一閃した。


 守山は、俊哉に睨まれると、それ以上何も言い返せなかった。最後に「……ちっ」と舌打ちをひとつ残して、肩を怒らせたまま通りの向こうへと消えていった。


 静けさが戻る。綾子はその場に立ち尽くし、俊哉と茉莉花を交互に見つめていた。


「……茉莉花さんの、お母様ですね」


 俊哉が一歩前に出て、深々と頭を下げる。


「早瀬俊哉と申します。茉莉花さんと一緒に大蔵省で働いている者です。本日は挨拶もないまま、このような場に居合わせてしまい、まことに申し訳ございません」


 言葉も仕草も申し分のない礼儀だった。しかも、その低頭ぶりはあくまで自然で、決して慇懃無礼ではない。


 綾子の唇がわずかに動き、表情がやわらいだ。


「まあ……それはご丁寧に。あなたが……?」


「はい。茉莉花さんとは以前より少しばかりご縁がありまして。本日は、たまたま偶然お見かけしたのですが……お騒がせしてしまって、まことにすみません」


「いえ……そんな、あなたが謝ることではありませんわ……」


 母は、先ほどまでの怒りを引きずってはおらず、むしろ「大蔵省」「礼儀正しい」「見目もいい」男を前に、困惑以上に安心の色を見せていた。


「まあ、立ち話もなんですし、よろしければ――家にいらして。ちょうど、お茶とお菓子をご用意しておりましたの。……いえ、何もたいそうなものではございませんけれど」


 綾子の言葉に、俊哉はにっこりと笑った。


「それは光栄です。ぜひ、甘えさせていただきます」




 綾子が俊哉を家に招き入れると、三人は玄関を抜けて、応接に向かった。

 彼女の背筋はまだ強張っていたが、時折俊哉に目をやり、その礼儀正しい物腰や清潔な身なりに、次第にほぐれていくのが分かった。


 客間には、守山のために用意されていた客菓子がそのまま残っていた。

 綾子が苦々しげにそれを見て、「せっかくだから、召し上がっていただけると嬉しいですわ」と盆を差し出すと、俊哉は柔らかく会釈した。


「ありがとうございます。でも……その前に、茉莉花さん、よろしければお着替えを。お疲れのご様子ですし、足元も……」


 視線を落とした彼の目線の先には、乱れた裾と、血が滲んだ足袋があった。


「普段通りの、楽な格好で構いませんから。……少し、気持ちを落ち着けてきてください」


 その言葉に、茉莉花は一瞬だけためらった。母と俊哉を二人、客間に残す不安が胸をよぎる。

 けれど、このままではどうにも落ち着かない。小さく頷き、襖を閉めてから、茉莉花は自室へ向かった。


 着替えながら、ふと我に返る。……一体、何がどうなっているのだろう。

 俊哉が咄嗟に放ったあの一言で、全ての場面が変わってしまった。

 母は守山の怒鳴り声よりも、俊哉の落ち着いた所作や穏やかな声音に、今やすっかり気を取られている。


 箪笥からブラウスとスカートを取り出し、着慣れた洋装に身を包むと、乱れた気持ちもほんの少し整ったように思えた。

 階段を降りると、客間からは母の笑い声が漏れ聞こえてきた。


「まあ、帝大のご出身なの、どちらの学部で?」


「法学部でした。当時はまだ、戦後の復興がどうなるか、なんて議論ばかりしていた頃でして。時代に浮かされて、私も随分無茶な勉強をしましたよ」


「まあまあ……それにしても、お話がほんとうにお上手。お仕事も、きっとお忙しいんでしょうに……」


 母の声はすっかり弛んでいた。茉莉花が襖を開けると、俊哉は母の斜向かいに腰をかけ、湯呑を手にしていた。

 その表情は穏やかで、にこやかだが、決して馴れ馴れしすぎることはない。あの飄々とした男が、ここまで母の心を掴むとは。


「おや、茉莉花さん。やっぱり洋装の方が似合いますね」


「……ありがとうございます」


 茉莉花が席に着くと、母が待ってましたとばかりに問いかけた。


「あなた方、お付き合いはいつ頃からなの?」


 ストレートな問いに、茉莉花が思わず目を剥くよりも早く、俊哉は笑って答えた。


「気がついたら、というところでしょうか」


「まあ、気がついたら、ですって。ふふ、そういうのも、いいものですねえ」


「ええ、本当に。不思議とご縁というのは、いつの間にか、ということが多いものですから」


「では、結婚のご予定などは?」


「そのあたりは……私のほうが、まだ、足元を固める段階でして。とはいえ、目の前にいらっしゃる方は、たいへんに魅力的ですから――焦らぬようにするのが、むしろ難しいほどです」


 綾子は、顔をほころばせてうなずいた。まるで俊哉の言葉を一言一句噛みしめるように。


 茉莉花は、呆れながらも内心で舌を巻いていた。


 ――この人、なんにも答えてないじゃない……。


 だが、それでも会話は成立し、相手を満足させてしまうのが俊哉という男だった。

 まるで手練れの演奏家が、楽器を鳴らすように会話を操るのだ。


 やがて、柱時計が正午を告げる少し前、俊哉は懐中時計を取り出して時刻を確認した。


「お母様、長居してしまいました。そろそろ、私はお暇しようかと思います」


「あら、せっかくですもの。お昼もご一緒になさって」


 綾子がすぐに引き止めたが、俊哉は柔らかく、けれどきっぱりと首を振った。


「お気持ちは本当にありがたいのですが、午後には東京に戻らなければなりませんので」


「まあ、それは残念。でも、お忙しいのですね」


「ええ、ですが――もし差し支えなければ、少しだけ、茉莉花さんをお借りしても?」


 母は一瞬きょとんとしたが、すぐにぱっと目を輝かせた。


「ええ、もちろん。梅雨の間には珍しくいいお天気ですし、少しお散歩でもなさっていらして。……茉莉花、気をつけなさいね」


 茉莉花は返事をしながらも、母のあまりの浮かれように、思わず目を伏せた。


 俊哉は玄関で帽子をかぶり、戸口に手をかけながら、振り返って微笑んだ。


「さあ、お付き合い願えますか?」


 その笑みは、少年のように無邪気で、どこか人をからかうようでもあった。

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