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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第二部:茉莉花編
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二十四話

 湿気を含んだ空気が、肌にまとわりつく。六月の重たい空気の下、茉莉花は赤い晴れ着の裾を乱しながら、門を蹴るようにして表へ飛び出した。


 背後から、低く、肥えた男の声が追いかけてくる。


「おい、待てってば、茉莉花!」


 続けて、母の鋭く刺すような悲鳴。


「茉莉花、戻りなさい!やめなさいったら、恥ずかしい……!」


 声は一瞬、家の中に引き戻され、そしてまた開いた戸口から漏れ出てくる。濡れた雑巾のようにまとわりつく声。梅雨の晴れ間の生ぬるい風にのって、後を追ってくる。


 走るしかなかった。


 理由も道理もどうでもよかった。あの襖を開けた瞬間に、理屈はすべて飛んでいた。守山のあの目つき。いやらしい笑み。女を、子を産むための器にしか見ていないあの口ぶり。


 忘れようとしても、耳の奥で反芻される。


 ――お前の役目ってのはさ、俺の子をちゃんと産んで、育てて、家を守ることだろ。


 その一言が、頭の奥で炸裂したまま離れなかった。


(走らなきゃ……逃げなきゃ……)


 茉莉花の草履が、石畳の継ぎ目に取られた。着物の裾が足にからみつく。普段、洋装でパンプスに慣れた足は、思うように動いてくれない。


「――ッ!」


 右足の指先が、石の角にぶつかった。鈍い痛みが走り、前につんのめった。ぐらりと体が傾き、肩を壁にぶつける。軒先の鉢植えがわずかに揺れた。だが止まる暇はなかった。


 草履の緒が切れかけていた。湿った空気に足裏が滑る。指の間に、じんわりとした熱さが広がる。血がにじんでいるのが分かった。土埃の混ざった泥水が、裂けた皮膚に染みる。


(痛い……けど、止まれない……)


 振り向けば、あの肥えた守山の影がある。母の喚き声がある。

 あの家の空気が、声が、着物の襟にまで染みついている気がして、茉莉花は震えそうになる心を、足元に叩きつけるように走った。


 道行く人々の顔が、一瞬ずつ視界をかすめていく。


「茉莉花ちゃん……?」


「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」


 近所の干物屋の女将、表具師の若い衆。日曜で家にいた人々が、戸を開けて茉莉花の姿を目にし、眉をひそめる。

 何事かという目が、頬やうなじに突き刺さる。


(どう思われてもいい……)


 それどころではなかった。足が痛む。乱れた裾が、踝を引っかく。

 髪が肩にまとわりついて重い。襟元が崩れ、帯がずれているのが自分でも分かる。

 それでも、止まるという選択肢はなかった。


 喉が焼けるように乾いていた。息を吸うたび、酸素が足りない。梅雨の空気は湿っていて、肺が粘土で詰まったように重たい。


「……っく……!」


 草履がとうとう片方、脱げた。もう一度、石畳に足をぶつけた。ぐに、と潰れたような痛みに、声にならない呻きが漏れた。


 右足の親指から、真っ赤な血がしたたり落ちた。


 それでも――


 茉莉花は、草履の片方を引きずりながら、滲む視界の中で前を見た。


(逃げられる場所なんてないのに……)


 頬を伝う汗なのか涙なのか分からないものを、手の甲でぬぐおうとした。だが手はうまく動かなかった。帯の締めつけで腕がうまく上がらない。


 それでも、走った。

 もつれる足で、何度もよろけながら、必死に前へ、前へ。


 そんな時だった。


 一本向こうの通りに、見覚えのある――しかし、ここにはいないはずの姿を見つけた。

 視界の中で揺れていた影が、少しずつ輪郭を結んでいく。


 柔らかな生成りの麻のスーツに、薄い藤色のネクタイ。その結び目がわずかに緩んでいるのが、却って無頓着な品の良さを感じさせた。

 長身で、やや猫背気味に壁にもたれ、手にした帽子をくるくると指で回している。

 風に揺れる髪は柔らかそうで、額にかかる前髪を指で払いながら、何かを待っているように――いや、こちらを見て、確かに笑っていた。


 まさか、こんな場所に。彼が、今、この町の、こんな通りにいるはずが――そう思いながらも、確かにそこに立っている。

 うすら笑いを浮かべながら、こちらに向かって、ごく控えめに手をひらひらと振っていた。


「……っ!」


 もう、迷っている余裕はなかった。


 茉莉花は、血の滲む足を気にする暇もなく、乱れた着物を抱え直し、その男のもとへ駆け出した。地面がぐらついた。

 ふらつく足が何度ももつれかける。それでも必死に駆けよると、その男の前に、息を切らして立ち止まった。


「……なぜ、あなたがここに」


「なぜと言われましても。実家がこの辺りでして」


 整えた襟元を指先で直しながら、彼はまるで散歩中のついでのような態度だった。


「それより――茉莉花さん。お困りなのでは?」


 言われて、全身の痛みと、足の血のぬめりが一気に意識に上った。

 振り返ると、追っ手が来る気配がする。


 また逃げようとした瞬間、「待って」という言葉とともに、彼の手が茉莉花の細い腕をそっと掴んだ。


「――僕を、利用しても構いませんよ?」


 口元には、あの余裕の笑みが張りついたままだ。

 まるでこの状況すら、どこか他人の芝居でも見ているような楽しげな表情。


 茉莉花が目を上げた瞬間、彼の眼差しがこちらを見つめていた。笑ってはいた。

 けれどその笑みは、瞳の奥に冷たく光る何かを抱えたままだった。


「ただし――僕に借りを作ることになりますけどね」


 その言葉に、全身の肌が粟立つ。背骨の芯に氷を流されたような、ぞっとする感覚。

 振り切って逃げようとしたその時のことだった。


「茉莉花!」

「あなたっ、ここで何をしているの!」


 怒鳴り声と、鋭く刺さる母の声が背後から突き刺す。

 立ち止まると、赤くなった顔で仁王立ちの守山が、目を剥いて茉莉花を見ていた。

 その肩越しには、息を切らして駆け寄ってくる綾子の姿。彼女の顔は真っ青で、目だけが吊り上がっている。


「そちらの方は……どなた?」


 戸惑ったような綾子の視線が、俊哉に突き刺さる。

 しかし彼は、眉ひとつ動かさず、飄々と笑ったまま茉莉花を見ていた。


 どうすれば――。


 茉莉花は視線で助けを仰ぐが、彼は相変わらずの笑顔で、無言のまま肩をすくめてみせた。

 まるで、あなたの好きにしろ、と言っているかのように。


 茉莉花は彼を睨みつけてから一度、大きく息を吸い込んだ。

 そして、母と守山に向き直ると、まっすぐ前を見据えて口を開いた。


「――お付き合いしている方が、いるのです」

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