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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第二部:茉莉花編
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二十三話

 翌日、日曜の朝――。

 朝倉家の二階には、まだ梅雨の合間の湿り気を帯びた空気が残っていた。窓の外には薄く雲がかかり、鳥のさえずりも遠く響くように聞こえる。


 茉莉花はベッドの中で、久しぶりの遅い目覚めを楽しんでいた。

 連日の勤務、応援先での緊張、通勤の疲れもあり今日は少しだけ甘やかそうと決めていたのだ。


 ――けれど、それは突然破られた。


「茉莉花!茉莉花、起きて!すぐに支度してちょうだい!」


 けたたましい母・綾子の声が、壁を隔てて響いたかと思うと、次の瞬間には扉が開け放たれた。


「なに……お母様?いったい……」


 眠気の残る声で問いかける暇もなく、綾子はすでにその腕に見慣れぬ着物の包みを抱えていた。

 包みを解くと、現れたのは鮮やかな赤――緋色の晴れ着。大きな花模様があしらわれ、金の糸が陽を受けてちらちらと煌めいた。


「これに着替えて。帯はこちら、髪も結ってあげるから。早く、急いで!」


「ちょ、ちょっと待って。何を……?」


「いいから!お客様をお待たせすることはできないのよ!」


 鏡台の前に立たされ長襦袢を通される頃には、茉莉花は完全に目を覚ましていた。けれど、頭はまだついていかない。

 なぜ、日曜日の朝からこんな晴れ着を?お客様?何の用で?


 綾子の手は容赦なく動き続け、髪を梳き、簪を差し、紅を軽く唇にのせる。


「お母様、本当にこれは……」


「いいから!もうすぐ時間なの。帯を緩めないで、姿勢も崩さないようにね」


 ――ただならぬことが始まろうとしている。


 綾子に急かされながら一階へと降りる階段の途中、茉莉花は手すりに軽く触れ、足を止めたくなった。

 けれど後ろから綾子がぴたりと付いており、退路は与えられない。


「客間へ通してあります。さあ、行って」


 和室の襖を、綾子が自らの手で静かに開ける。


 そこにいたのは、あの守山だった。


 昨日の母の言葉。それを取り合わず病院へ向かった茉莉花の背中に、母はこの見合いを投げつけてきたのだった。


(……お父様が入院している時に、よくこんな真似を……)


 声には出さなかったが、冷え切った表情の奥には怒りがひそやかに揺れている。

 けれど茉莉花は、客間の座布団にゆっくりと膝をついた。自分の怒りは母には通じないことを、彼女はもう痛いほど理解していた。


 目の前の守山が口元に笑みを浮かべたまま、すっと背筋を伸ばして座っている。

 その様子に、茉莉花の脳裏には、かつての記憶がよみがえってくる。


 ――「お前は俺の女になるんだ、だから俺の言うことを聞いていればいい」

 ――「おなごのくせに成績がいいから気に食わねえ」


 あの頃と何ひとつ変わっていない。

 むしろ、あの時の幼い傲慢さは、年月を経て自信と権利意識を帯びた正しさとして装われ、さらに厄介になっていた。


 茉莉花の手の中で、赤い袖の端がきゅっと握られた。絹のきらめきが、まるで自分の意志を封じ込める檻のように感じられた。


「いやあ、久しぶりだなあ」


 守山の声は、畳にどすんと落ちるような重さと、乾いた音を帯びていた。


 茉莉花は正座しながら、ぴしりと背筋を伸ばす。目線はわずかに伏せたまま、口元に微笑の形だけを貼りつける。着せられた赤い晴れ着が、きしむように肩を締めつけていた。


 守山の目が、ゆっくりと彼女の全身をなぞった。目を逸らすことなく、臆面もなく、視線が肌の上を這いまわる。

 その行為に羞恥や配慮はなく、まるで競りにかけられた家畜を値踏みするような、卑しさと鈍重さをまとっていた。


「……立派になったじゃないか。昔はガキっぽかったのに、今はすっかり女ってやつだ」


 その言いざまに、茉莉花の喉の奥がきゅっと締まった。あの頃の記憶が甦る。

 女であるせいで、相手に所有されることを正当化される、この不快な空気が。


「……お変わりありませんか」


 茉莉花の声は丁寧だったが、冷えていた。氷の粒が舌の奥に残るような、わずかに硬い声。

 けれど守山は、そんな機微など気にも留めず、図太く続ける。


「いやいや、変わったさ。店の仕事もずいぶん板についてきたし、家の中じゃ弟分たちもできて、こっちが威張らなきゃ舐められちまう」


 それが自慢なのだろう。鼻を膨らませ、顎をぐいと突き出す。

 額に張りつく髪の束が汗に光り、妙に艶のある羽織が光っていた。羽織の裾を片手で払いながら、彼は続けた。


「でもまあ、昔から決まってたことだからな。やっぱり嫁にするなら育ちが分かってるほうが一番だ。家の格式も悪くねえし、医者の娘ってのも、まあ悪くねえ」


「……私は、まだ仕事をしておりますので」


 茉莉花が口を開くと、守山は鼻で笑った。


「まだタイピストなんかやってるんだってな。そんなこと、いつまで続けるつもりなんだよ」


 言いざまには、軽蔑と呆れが混ざっていた。声に重ねて、指がぽきりと鳴らされる。


「あんなの、女の暇つぶしみたいなもんだろ。打鍵かなんか知らねえけど、ああいうのはな、男が稼いだ金で飯食ってる女が、ちょっと働いてますって気取るための道楽だ」


 茉莉花の口元がわずかに引き結ばれる。睫毛がかすかに震えた。

 守山は構わず、どこまでも調子に乗った。


「俺の女になるんだったら、そんなもんはきっぱりやめて、家のことに専念してくれたほうがありがてえ。うちの母親もお前のこと気に入ってるしさ、おふくろと台所で仲良くしてくれりゃ、商売もうまく回るってもんよ」


 茉莉花の胸の奥で、何かがじわりと熱を持ちはじめた。


 あの時――小学校の廊下で、自分を「俺の女」と呼んだ子供の口調と、今目の前でしゃべっているこの大人の男の言葉が、まったく同じ質量で響いてくるのが、不気味だった。


「それに……」


 守山は椀を置くと、膝を崩して片肘をつき、茉莉花にじり寄るように身を傾けた。


「お前の役目ってのはさ、俺の子をちゃんと産んで、育てて、家を守ることだろ。昔から、そういうふうに決まってたんだ。まわりくどいことすんなよ。もういい年なんだし、わがままはおしまいにしなきゃな」


 その瞬間、茉莉花の背筋に、鋭い電流が走った。


 視界の端が淡く滲んで、音が遠のく。静まり返った室内に、自分の鼓動だけが大きく響いた。耳の奥で、何かがぱちん、と音を立てて割れる。


 彼女は真っすぐに守山を見た。今はっきりと、その顔がどれほど自分を侮辱しているかをまっすぐ見据えると、低く、凍るような声で告げた。


「……失礼します」


 ぴたりと沈黙が落ちた。


 ついで、茉莉花は襖に手をかけ、容赦なく――バンッと音を立てて開け放つ。空気が爆ぜ、家中が震えた。


 草履に乱暴に足を突っ込み、かかとがうまく入らずつまずきかける。そのまま振り返らずに、玄関から外へと飛び出した。

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