二十二話
土曜日の昼下がり、霞ヶ関の空には薄雲がかかっていた。石造りの庁舎の外壁に、ぼんやりとした光が反射し、門前の舗道にはまだらな影を落としている。
茉莉花は、鞄を肩にかけながら門を出た。今週は大蔵省の応援勤務が始まってから三週目。
初めは緊張した空気の中で、余所者としての遠慮もあったが、今では与えられる書類の分量も増え、重要な仕事も任されるようになっていた。
庁舎を離れてすぐの大通りには、帰宅を急ぐ職員や学生の姿がちらほら。茉莉花はいつものように早足で地下鉄の駅へ向かおうとしたが――
「おや、偶然ですね、茉莉花さん」
背後からかけられた声に、茉莉花は軽く眉を寄せて振り向いた。
そこにいたのは、先日出会ったあの男――早瀬俊哉。そしてその横に立つのは、穏やかな眼差しの島田孝太郎だった。
「……お疲れさまです。ご一緒だったんですね」
「ええ、今日は一緒に昼まで働いていたものですから。今ちょうど帰るところでした」
孝太郎の言葉はいつも通り落ち着いていたが、その隣で俊哉はにやりと笑みを浮かべて茉莉花に一礼した。
「茉莉花さんは今日もお綺麗ですね。帰り際に出会えるなんて今日は良い日だ。ねえ島田?」
「……軽口が過ぎるぞ、俊哉」
低くたしなめるような声で、孝太郎がすぐに言葉を挟んだ。
茉莉花はそのやり取りに微かに口元を引き結び、無言で帽子の庇に手を添えた。
「お帰りの方向、私たちと同じ方向かと思ったのですが、ご一緒しても?」
孝太郎の穏やかな申し出に、茉莉花は一瞬だけ視線を伏せた。
気が進まない――が、知代の夫である彼の厚意を、無下に断ることもできない。
「……ええ、分かれ道まででしたら」
三人は並んで大通りを歩き出した。早瀬は悠然と歩き、孝太郎は少し斜め後ろを歩く茉莉花に気遣うように歩調を合わせていた。
「お二人とも、お住まいはこの辺りなんですか?」
茉莉花が尋ねると、早瀬が肩をすくめて答えた。
「島田の家の近くに部屋を借りてるんですよ。もう、帝大時代からのことだから、かれこれ……七年か八年くらいになるのかな」
「……それは、羨ましいですね」
ぽつりとこぼれたその言葉に、早瀬はすかさず反応を見せた。
「茉莉花さんも、一人暮らしをしたいと?」
その問いに、茉莉花は思わず本音を漏らした。
「――家から出たいだけです」
その言葉に、孝太郎は何も言わず、静かに視線を前に戻した。
早瀬は口の端を片方だけ持ち上げ、何かを探るような目つきで茉莉花を見やったが、それ以上何も言わなかった。
ほどなく、通りが二手に分かれる交差点に差し掛かった。
「今日は俊哉がうちに来るので、もしよかったら、茉莉花さんも――どうですか?」
孝太郎がふと振り向き、やわらかく声をかけた。
茉莉花はほんの少し考えるそぶりを見せたが、知代には会いたいけれど、それは俊哉と同席するという犠牲を払わなくても、また改めて会いに行けば良いという結論に至ったようだった。
「今日はお三方でお過ごしになる予定でしょうから遠慮しておきます」
口にした言葉の奥には、俊哉に対する警戒心がにじんでいた。
そして、別れ際に茉莉花は一歩だけ近づき、俊哉の方をまっすぐに見て言った。
「――知代に、あまり失礼のないようにお願いします。あの子は、そういう冗談を好まない人ですから」
俊哉は、すぐにいつもの笑みに浮かべた。
「ええ、心得ております。親友の妻には誠意をもって接するのが信条ですから」
茉莉花はそれ以上何も言わず、踵を返して歩き出した。風が、並木の葉を揺らし、午後の陽射しが足元の石畳に淡く落ちていた。
帰宅して玄関の門を開けると、家の中からぱたぱたと足音が近づいてきた。
「茉莉花!」
ふだんは落ち着いた面持ちの綾子が、少し取り乱したような顔つきで現れた。割烹着の腰紐も解けかけ、手に持った手拭いがぎゅっと握られている。
「どうしたの? 何かあったの?」
茉莉花が慌てて問いかけると、綾子はひとつ息をついて言った。
「お父様が……入院されたの。大学病院に。今日の昼前よ。診察のあとにそのまま――」
「入院……!? でも、どうして?」
「病気じゃないわ。ただの過労だって。検査の結果も悪くないそうよ。だけど、お医者様が、無理をさせないようにって。……それだけ働きすぎてたってことよ」
言いながら、綾子の口調はどこか昂ぶっていた。
心配というより、別の感情が混じっている。
茉莉花の胸に冷たいものが落ちた。
「なら、今すぐ病院に行くわ」
そう言って背を向けかけたその時、綾子の声が背中に突き刺さった。
「ちょっと待って、茉莉花」
振り返ると、綾子は真剣な眼差しでこちらを見据えていた。あの、何かを決めたときの母の顔だった。
「……これで、分かったでしょう? 親なんて、いつまでもいるものじゃないってこと。だから早く、結婚を決めてちょうだい」
「……今、そんな話をするの?」
茉莉花は呆れたように目を細めた。
「お父様が入院したばかりなのに。何よりも、お母様だって心配してるんじゃないの?」
しかし、綾子は一歩も引かなかった。
「心配してるからこそよ。ひとりで何もかも背負ってるあの人を見て、私は思ったの。あなたが家を出て、きちんと身を固めてくれれば――私たちも安心できるって」
「……!」
茉莉花は言葉を失った。そして次の瞬間、綾子は一言、まっすぐに言い放った。
「今日中にお見合い相手を選んでくれないと――」
その先の言葉を聞かずに、茉莉花は踵を返した。玄関の扉を開け、帽子を取り上げ、無言のまま外に出た。
扉の音が、硬い音を立てて閉じられる。
胸の奥が、怒りと悲しみと、言いようのない焦燥に締めつけられるようだった。
病院の待合室には、薄い陽の光が差していた。梅雨の合間の晴れ間。だが、ガラス越しの景色はどこかぼんやりして見えた。
病室の戸をそっと開けると、ベッドの上に父・慶一郎の穏やかな姿があった。
シーツの上に整然と置かれた手。いつもの白衣の代わりに、病衣を身にまとい、枕に背をあずけて読書をしている。
「お父様……」
声をかけると、慶一郎は本を閉じ、柔らかく笑った。
「茉莉花か。来てくれてありがとう。驚かせてしまったね」
その声は変わらず温かかった。だが、頬の線が心なしか痩せて見える。眼鏡の奥の目元も、どこか少し、陰っていた。
「起きていて大丈夫なんですか?」
「うん。入院といっても、そんな大事じゃないさ。点滴を受けて、検査して、少し横になればすぐ戻れるだろう。お医者さんの方が大袈裟なくらいだよ」
そう言って笑った父の手に、茉莉花はそっと自分の手を重ねた。
「どうか無理だけは、なさらないでください。私はお父様を失うなんて、考えたくない」
その一言を口にした瞬間、自分の中にあった恐怖があふれ出しそうになった。
父がいなくなったら、この家の中で、自分の味方は誰ひとりいなくなるかもしれない。
――そんな孤独が、茉莉花の胸の奥を、静かに蝕んでいた。
「茉莉花」
慶一郎は茉莉花の手を包むように握りしめた。
「私はね、君がどう生きたいか、ちゃんと見てるよ。焦らなくていい。自分の足で歩いていけるなら、それが一番だ。だが、一人で抱え込みすぎてはいけない。必要なときは、誰かに支えてもらいなさい」
その言葉は、まるで病室の静けさと呼応するように、深く、やさしく響いた。
茉莉花は小さく頷きながら、しばらくその手を離さず、ただ黙って父のそばに座り続けた。窓の外には、ゆるやかな風が流れていた。




