二十一話
大手町の空は朝から澄みわたっていた。梅雨前の爽やかな光が石造りの庁舎に反射し、白く磨かれた窓ガラスをぴたりと照らしている。
逓信省庁舎の裏手、通用口をくぐると、いつものように石段を上がり、茉莉花は三階の女性事務室へと向かった。
まだ午前八時半前だというのに、廊下はどこかざわついている。女性職員たちが集まって何やらひそひそと話しており、ひとりが頬を赤らめて「本当に? 大蔵省?」と声を上げていた。
執務室に入ると、上司にあたる課長代理が机から顔を上げた。
「朝倉さん、ちょうどよかった。少し話がある」
手帳を置き、すっと近づくと、課長代理は声を低くして言った。
「急な話だが、大蔵省からの要請で、こちらの翻訳タイピストを一、二名ほど、二か月間臨時で派遣することになった。……なに、大したことではない。向こうの予算局で英文の処理が急に増えたそうで、短期間の応援だ」
「それで、私に?」
「そう。条件として、英訳・和訳両方できる人材を、とのことだ。……該当者は、正直言って君しかいない。給料は、基本月給の一割増しだ。文書交通費と昼食手当も含めれば、まずまずの待遇だろう」
茉莉花は一瞬、考え込むように口を結んだが、すぐに表情を緩めた。
「承知しました。お引き受けいたします」
「助かるな。今日中に正式な文書が届く予定だが、出勤は来週頭からになる」
頭を下げると、課長代理は机に戻り、書類に目を落とした。
一方で、部屋の一角では別のざわめきが続いていた。
「ねえ、聞いた?大蔵省ですって」
「兄が言ってたわよ。大蔵省ってのは給料も良くて、結婚相手として最高なんだって」
「しかも予算局って、花形よ。誰が派遣されるのかしら……」
タイピストたちの声は、期待と好奇心と、少しの浮つきが混ざっていた。
女学校や商業学校を出た彼女たちの多くは、いずれ誰かと結婚するまでの腰掛けとして働いている。だからこそ、縁談の機会には人一倍敏感だった。
そんな空気のなか、茉莉花は静かに椅子に腰を下ろし、辞書を引きながら今日の書類に目を通し始めた。
結婚のためじゃない。
私は、もっと現実的な目的のために働いている――たった一割増しの給料でも、自分の生活の可能性を広げるために。
その姿勢には、他の誰にも似ていない、ひとつの確かな誇りがあった。
そして翌週の朝。いつもより十五分早く家を出た茉莉花は、東京市内にある大蔵省庁舎の一角、予算局の臨時事務室へと足を踏み入れた。
白壁の洋館風の廊下を抜けた先、案内されたのは窓の高い執務室だった。壁際に女性用の事務机が数台並び、すでに何人かの女性が席についていた。
逓信省とは、少し雰囲気が違っていた。机上の文具は整ってはいるが、机に向かう姿勢に、どこか緊張感が薄い。
「朝倉さん、ね?」
「よろしくねぇ、私たちはほとんど書き写すだけだから、きっとあなたが頼りよ」
向かいの席の女性がにこやかに声をかけてきたが、その口調にはどこか仕事はそこそこにという温度感があった。
他の者も、手紙を真剣に読むでもなく、原稿用紙を前に指を止めたまま会話に興じていた。
――ああ、なるほど。他省庁からも応援を求めた理由がわかった。
茉莉花はそう思いながらも、表情を変えずに席についた。配られた英文公文書と訳文控えを手に取り、鉛筆を削り、辞書に手をかける。タイピストというより、翻訳者に近い分量の業務だったが、彼女の指先は迷わなかった。
そのときだった。
背後の扉が開き、柔らかな靴音が部屋に響いた。
「おや、今日はいつにも増して綺麗どころが揃ってるねえ。これは何か祝い事でも?」
声を発したのは、黒髪を七三に分けた整った顔立ちの男だった。艶のある紺のスーツに淡いグレーのネクタイ、胸ポケットには無造作に差された白いハンカチ。
「あっ、早瀬さん……」
「まぁた冗談ばっかり。でもネクタイ、素敵です」
「ええ、いつもよりずっと真面目に見えるわ」
次々にかけられる声に、男は片手をひらひらと上げて受け流す。
「そんなこと言われたら、急ぎの仕事で来たのに帰れなくなっちゃうな。……うーん、誰か――適当に助けてくれたりしないかなあ?」
肩をすくめて笑うその態度に、場の空気がふっと緩んだ。誰に向けたとも知れない甘い言葉を、まるで投げ札のように放って、軽やかに場を泳いでいる。
――また、こういう手口。
茉莉花は書類に目を落としながら、口の端で小さく息をついた。
女に囲まれて甘い顔を見せて喜ばれるタイプの典型だ。こんな男が大蔵省にもうようよいるのかと思うと、早くも気が滅入った。
声の波の向こうで、ふと視線を感じた。
顔を上げると、その男――早瀬と呼ばれた男が、まっすぐこちらを見ているような気がした。
けれど、茉莉花は急には視線を逸らさなかった。驚きも羞じらいもなく、ただ、明らかに呆れたような表情を浮かべたまま、ゆっくりと窓の外へ目をやった。
霞んだ空の向こうに、低く雲がたなびいている。
「失礼します」
椅子を静かに引き、お手洗いに立つ。声のざわめきも、女たちの笑い声も、廊下に出た瞬間にすべて音の膜の向こう側に遠ざかった。
茉莉花の背筋は、真っすぐ伸びたままだった。
午後の陽射しは、庁舎の高窓から斜めに差し込み、廊下の漆喰の壁にやわらかい影を落としていた。
予算局での初日も半ばを過ぎ、茉莉花は完成した英文資料の控えを腕に抱え、指定された部署へと向かっていた。ページの厚みに気を配りながら、足元の音を抑えて廊下を進む。
大蔵省の建物は逓信省よりもどこか重厚で、柱の間隔も広く、音がよく響いた。
ちょうど、廊下の角を曲がろうとしたとき――
「……あっ」
前方から来た人とぶつかり、茉莉花の腕から資料がばさりと崩れ落ちた。数枚の紙が床に散らばり、周囲に風のような音が広がる。
「申し訳ありません」
すぐに姿勢を正し、かがみかけたところで、向こうの男もしゃがみ込み、素早く資料を拾い集め始めた。
「いえ、こちらこそ……って、おや、またお会いしましたね」
顔を上げた瞬間、茉莉花の胸に小さなため息が湧き上がる。さっきの男だった。
廊下の女性たちを賑わせていた、あの調子のいい笑顔の主――早瀬、という名がちらりと頭をよぎる。
受け取った紙束を抱え直しながら、茉莉花は努めて無表情に言った。
「失礼しました」
なるべく関わらないようにと、歩を進めようとしたその時、
「見ないお顔ですね。新しく入られた方ですか、お嬢さん?」
その呼びかけに、茉莉花の足が一瞬だけ止まる。
お嬢さん――。
丁寧に聞こえなくもないその言葉には、どこか女としての軽い値踏みが滲んでいた。
茉莉花は振り返らず、正面を向いたまま答える。
「朝倉です」
それだけを口にして再び歩き出す。だがその瞬間、別の声が後ろから届いた。
「茉莉花さん?」
それはまぎれもなく、知代の夫、島田孝太郎だった。
「島田さん、ご無沙汰しております。先日は、お世話になりました」
「こちらこそ。今日は、大蔵省のほうへ?」
「ええ。今月から二か月、派遣で勤務しております」
茉莉花は姿勢を正し、控えめながらきちんとした口調で返した。
その横で、先ほどの男がにやりと口元をゆるめて声を挟んだ。
「島田、知り合い?」
孝太郎は特に警戒する様子もなく、あっさりと応えた。
「ああ。妻の友人で」
「へえ、知代さんの」
その瞬間、茉莉花の背筋にひやりとしたものが走る。知代さん――まるで親しい間柄のような言い回し。人妻に対して、あまりに気安い呼び方だ。
「島田の同僚の早瀬俊哉です。今後ともどうぞよろしく、お手柔らかに」
軽く頭を下げるその動作にも、どこか芝居めいた柔らかさがあった。けれど茉莉花は微笑むこともせず、静かに一礼した。
「申し訳ありません。仕事がございますので、これで失礼いたします」
紙束を胸に抱え直し、つかつかと歩き出す。彼女の背中には、何ひとつ感情を乱すものは見えなかった。
――あの人と、島田さんが同僚? あんなにも真面目で、堅実で、誠実そうな人が……?
廊下の窓から差し込む光が、磨かれた床に自分の影を落としていた。
その影を見つめながら、茉莉花は違和感を胸に抱えつつ再び歩を進めた。




