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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第二部:茉莉花編
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二十話

「ただいま戻りました」


 玄関の引き戸を開けると、茉莉花はいつも通り、上がり框で丁寧に靴を揃えた。帽子を脱ぎながら居間へ向かうと、妙に部屋がざわついているような気配がした。


「おかえりなさいな、茉莉花」


 声をかけたのは母・綾子だった。だが、その後ろには――奇妙な光景が広がっていた。


 テーブルの上に、ずらりと並んだ男の写真。

 台紙付きの正式な写真もあれば、気取った洋装で立ったスナップまで揃っている。きれいに整った並び方が、余計に威圧感を増していた。


「……なにごと?」


 茉莉花が一歩足を止めて尋ねると、綾子は満面の笑みを浮かべて両手を広げた。


「守山さんがどうしても嫌だって言うならね、こっちから選びなさいな。ほら、商社の御曹司、銀行員、役人、薬剤師。ずいぶんと揃えたのよ、名士名門の品評会!」


「結婚相手って、魚の目利きじゃないんですけど……」


 茉莉花は呆れたようにため息をついたが、足元は一歩も進めない。


「ちょっと見てみなさいって。ほら、この方なんて見て。横顔がちょっと、トーキー映画の俳優に似てるのよ。ね、なんだか魅力的じゃない?」


「それ、たぶんちょっとじゃないのよ。完全に別人」


 綾子は、「まあ」っと肩をすくめたが、その目は本気そのものだった。


「でも、あなたももう二十歳よ。働いてるからって一人前のつもりでもね、女の旬ってのは短いのよ」


「ええ。だけど旬の味って、一気に消費されるからこそ繊細なの。私は、保存食でも長期熟成でも構いません」


 茶化しながら言うその口調には笑みがあったが、声の奥には一分の揺るぎもなかった。


「ほんとに、あなたって子は……」


 綾子は困ったように眉をひそめるが、どこかで娘の言葉を予測していたらしく、強く詰め寄ることはしなかった。


 そのとき、背後から新聞を畳む音がして、父・慶一郎が口を開いた。


「まあまあ綾子、茉莉花の気持ちも分かってやりなさい。……本人の道だ。無理に敷いてやるものでもない」


 いつも通りの穏やかな声。だが、その口元に刻まれた皺が少し深く見えた。

 額のあたりに、ほんのりと青白い疲労の影が差しているように見えるのは、茉莉花の目の錯覚だったろうか。


「……お父様、今日は診療お休みだったの?」


「午前で切り上げた。ちょっと疲れてね」


「お布団、敷いてきましょうか?」


「いや、大丈夫。少し横になればすぐに戻る」


 そう言って微笑んだが、その笑顔はどこか張りつめていて、いつもの柔らかさが少しだけ揺らいでいた。


 茉莉花は、小さな違和感を胸に覚えながらも、それ以上は何も言わなかった。


「まあ、いいわ。今日は選ばなくても。でも、これ全部、しまうのも手間なのよ?」


 綾子が肩を落としながら写真の束をまとめ始めた。その動きのひとつひとつに、娘に譲れぬ思いと、ほんの少しの焦りが滲んでいた。


 居間を辞し、自室の扉を閉めると、茉莉花は深くひとつ息を吐いた。


 羽織を脱ぎ、ブラウスの袖口をゆるめる。鏡台の上に帽子を載せてから、机の抽斗を開け、帳面と鉛筆を取り出した。


 いつも使っている、黒表紙の家計簿。月ごとの出費と収入、必要経費の欄がきちんと線引きされていて、整然と数字が並んでいる。


 今日の交通費、昼食代、文具購入費、そして少しの手土産代。すべてを加算したあと、茉莉花は机上の封筒から紙幣を数え直した。


 翻訳補助官として働く茉莉花の月給は、およそ四十五円。うち十五円は家に入れている。

 食費と雑費で十円、書籍や語学資料に五円ほど。残るのは約十五円――だが、これはあくまで予定通りにいった場合の話だった。


 一人暮らしをすれば、東京での間借りは安くて月十円。が、女一人で住めるような場所なら、倍はかかる。


 「……無理じゃないけど、かなり厳しいわね」


 ふと、机の隅に目をやると、そこには東京の父方の叔父の住所を書き留めた小さな紙片が置かれていた。叔父は元判事で、現在は隠居の身。家は広く、娘も嫁いで空き部屋がある。


「……お願いすれば、住まわせてもらえるかもしれない」


 けれど、それはまた別のしがらみの始まりかもしれなかった。

 茉莉花は帳面を閉じ、椅子の背にもたれて、天井を仰いだ。


「……ごめんなさい、お母様。でも、もう限界なのよ」


 口にしたその言葉は、自分でも驚くほど静かだった。


 彼女の胸には、複雑な感情が渦巻いていた。


 つい先日まで、知代のことを「可哀想」と思っていた。あれほど優秀で、穏やかで、思慮深いのに、教育も満足に受けられず、家の中で女中のように扱われていた知代。

 そんな彼女が政略結婚をさせられたと聞いたとき、茉莉花の中には確かに怒りと憐れみがあった。


 ――けれど、今日、会ってしまったのだ。


 静かな陽射しの中で、知代は机に向かい、学びを語り、夫のことを「穏やかで安心できる」と微笑んだ。


 あれは、偶然に導かれた穏やかさだった。努力で勝ち取ったものではない。なのに――


「……羨ましい、なんて」


 その感情が、自分の胸の奥にほんのりと芽生えていたことに、茉莉花は愕然とした。


 あれほどつらい思いをしてきた知代に対して、素直な祝福ができなかった。喜びを分かち合うべき瞬間に、自分の中に「羨望」という影が差したことが、たまらなく悔しかった。


「……最低」


 膝に置いた手を、そっと握りしめる。

 それでも、泣かなかった。


 知代には知代の人生がある。私には私の道がある。


「まだ……もう少し、貯めないと」


 自立するには、現実がつきまとう。まだ、今は飛び立つには少し早い。


 帳面の最終ページに、「来春までに最低三百円貯蓄」と書かれた文字が、小さく震えているように見えた。

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