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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第二部:茉莉花編
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十九話

 知代の部屋に、午後の光がやさしく差し込んでいた。障子越しの陽が床の上に格子模様をつくり、その上を、風に揺れたレースのカーテンがふわりと滑っていく。


 二人の茶碗はもう空になっていたが、話の尽きる気配はなかった。

 やがて、茉莉花はカップに手を添えたまま、ぽつりとつぶやいた。


「……母にね、このあいだまた言われたの。『守山さんのお話、進めようかしら』って」


 その名を聞いた瞬間、知代の眉がわずかに動いた。記憶の底から浮かび上がってきた、昔の嫌な感覚――


「……守山くん? あの、尋常小学校の?」


「そう。相変わらず、母の悲願なのよ。薬問屋の跡取り息子と、医者の娘が釣り合うなんて、あの人にはこの上ない良縁らしいわ」


 茉莉花は、わざとらしく肩をすくめて笑った。その明るさが、逆にどこか痛々しく映る。


「でも……守山くんって、昔からひどかったじゃない。茉莉花におなごは口答えせずに黙って俺の横を歩けとか、言ってなかった?」


「うん。あと俺の女になるんだから、俺の言うことを聞けって」


 茉莉花は、こともなげに笑ったが、その声音の奥には、冷ややかな棘があった。


「尋常のころから、あの人はいつもそうだった。こっちが何を言っても、聞こうともしない。……私が女学校に進むときも、女が学問なんてつけたら碌な嫁にならんって言ってたわ。ねえ、知ってる? あの人、知代のこともおなごの癖に成績ばかり気にしおってって、馬鹿にしてたのよ」


 知代は、思い出してうなずいた。


「あった……。私、ほとんど話したこともなかったのに、急にそう言われたから……戸惑って、何も返せなかった」


 茉莉花は、少しだけ真顔になって、ため息をついた。


「私、あの頃から守山くんのこと、大嫌いだった。だから、母に何度言われても絶対に嫌って言ってるの。……兄が医者として家を継ぐから、私は良いところへ嫁がせたいんですって。そんなの、知ったことじゃないわよね」


 そこまで言ってから、ふっと表情をやわらげた。


「でも、お父様はね、無理に結婚しなくていい、茉莉花が働いてる姿は立派だって言ってくれるの。だから、私は何があっても断るつもり。そう決めてるの」


 明るく笑い飛ばすその声には、まるで鎧のような強さがあった。


 知代は、そんな茉莉花の横顔を見つめながら、自分の胸の奥に、ほのかな罪悪感が芽生えるのを感じた。


 ――私は、自分の意志ではなく結婚した。政略結婚、まさにそれだった。

 けれど、今はこうして穏やかに暮らしている。夫は無理強いをせず、私の歩幅に合わせてくれている。……私は、たまたま、恵まれていたのかもしれない。


 そんな静かな幸福が、自分だけのものであることに、少しだけ、胸が痛んだ。

 だが、茉莉花はそんな知代の複雑な思いを見抜いたように、すっと笑った。


「でもね、知代。あなたの顔を見て、安心したの。……こんなふうに笑えるようになって、ほんとうによかった」


 知代は、目を伏せて小さく頷いた。


 そのとき、茉莉花の胸の奥には、ひとつの決意が静かに灯っていた。


 ――私は、結婚なんてしない。誰にも、自分の人生を預けたりはしない。私は、私のままで生きる。


 その決意の背後には、誰にも語っていない秘密があった。知代にも言えない過去――茉莉花が強くあろうとする理由が、そこにはあった。




 午後の陽もだいぶ傾き、障子の影が長く伸びていた。時計の針を見て、茉莉花はそっと腰を上げた。


「そろそろ、お暇しなくちゃ。今日は、本当にありがとう。知代の顔が見られて、うれしかったわ」


「こちらこそ……忙しいのに、来てくれてありがとう」


 知代も立ち上がり、つねが玄関の方へと先に下がっていくのが見えたとき、ふいに戸の向こうから人の気配がした。


「ただいま戻りました」


 落ち着いた、男の声だった。つねの「おかえりなさいませ」という応えに続いて、廊下を進んでくる足音が近づいてくる。


 やがて、すっと襖が開き、一人の男が立っていた。

 表情は穏やかだが、どこか感情を抑えたような硬さがあった。


「はじめまして。島田孝太郎と申します。今日はお越しくださり、ありがとうございます」


 その挨拶は礼儀正しく、非の打ちどころはなかったが、どこか機械的な響きがした。茉莉花は一瞬、少し拍子抜けしたような気持ちになる。

 知代のことを心から案じているように見えたが――この夫は、なんだか少し、距離があるようにも思えた。


 けれど、それも礼儀と節度の表れかもしれない、と気を取り直して、茉莉花は持参していた紙包みを差し出した。


「お邪魔しております、朝倉茉莉花です。つまらないものですが……こちら、横浜の和菓子屋の羊羹です」


 孝太郎はそれを受け取り、包みの端に目をやると、ふと口元を緩めた。


「……知代さんは、羊羹が好きでしたね。ありがとうございます。二人で、いただきます」


 何気ない一言だったが、その二人でという言葉に、茉莉花は少しだけ、印象を改めた。

 ――少なくとも、思いやりのない人ではなさそう。

 知代がそっと微笑むのを確認して、茉莉花はつねの案内で玄関へ向かった。


「じゃあね、知代。また手紙書くわ」


「ええ……また、きっと来てね」


 門に向かって数歩を進んだところで、不意に後ろから声がかかった。


「……茉莉花さん」


 振り返ると、玄関の框に立つ孝太郎の姿があった。日暮れの光を背に、襟元に影が落ちている。


「あなたが来ると、知代さんが喜びます。どうかまたいつでも、気軽にいらしてください」


 その声には、先ほどよりずっと柔らかい響きがあった。

 茉莉花は少し驚きながらも、すぐに笑顔で頷いた。


 「ええ、ありがとうございます。それなら、遠慮なくお邪魔させていただきますわ」


 孝太郎は静かに一礼し、戸を閉めた。


 茉莉花は軽くスカートの裾を揺らして門を出た。風が、ほのかに羊羹の甘い香りを運んできたような気がした。


 ――きっと、あの二人なら、大丈夫。


 胸の奥に小さな安心を抱いて、茉莉花は夕映えの道を帰っていった。

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