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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第二部:茉莉花編
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十八話

 家の門を開けたとたん、茉莉花はふうっと肩の力を抜いた。

 大手町からの帰路は、それほど長くはない。けれど、今日一日で打ったタイプの量と、訳し終えた文書の数を思えば、体の奥にまで疲れが残っていた。


 玄関先の壁には、真鍮の小さな郵便受けが取り付けられている。ふと目をやると、白封筒が一通、口から覗いていた。


 茉莉花はすぐに手を伸ばし、それをそっと引き抜いた。差出人の欄には、見覚えのある筆跡。すらりとした仮名遣いで、「島田知代」とあった。


「……やっと」


 思わず、声が漏れた。封はまだ切られていないのに、それが何よりも大切な手紙だと、茉莉花の指先ははっきりと知っていた。


 家に上がるなり靴を揃え、帽子も外さずに自室へと向かう。机に灯りをつけ、椅子に腰を下ろし、封をそっと開いた。

 便箋は淡い桜色の縁取りがされたもので、あの知代らしい控えめな筆遣いが、淡墨で綴られている。


 一週間前のことが、頭をよぎった。


 あの日も朝早く、駅へ向かう途中の道で茉莉花は一人の年配の女中とすれ違った。


「……朝倉様でございますか」


控えめに声をかけてきたその人は、島田家で仕えているという花と名乗った。


「知代様のところの……小さい頃からの、奉公人でございます」


 丁寧な言葉と、やさしい目。花は、紙に書かれた住所をそっと茉莉花に差し出しながら、こう続けたのだった。


「――きっと、知代様は……朝倉様に、会いたがっておられます」


 その一言に、胸がぐっと締めつけられた。だから、手紙を書いた。あの知代が、どんな思いで今を過ごしているのかを知りたくて――いや、彼女のそばに少しでも寄りたくて。


 そして今、ようやく届いたその返事には、こう綴られていた。


 ――夫・孝太郎の許可を得たので、休日にぜひ遊びに来てほしい、と。


 時間も場所も、文末に丁寧に記されている。言葉の端々には、知代らしい謙虚さが滲んでいたが、それでも文面全体からは、彼女の心が少しやわらいでいることが、静かに伝わってきた。


 茉莉花は思わず便箋を胸元に当てて、小さく息をついた。


 ――よかった。元気そうで、本当によかった。


 頬が自然にほころぶ。長い一日の疲れも、不思議と和らいでいた。


 机の横のカレンダーに視線を移し、今週末の日付に目を留める。


(……行けそう)


 あの知代に、再び会える。


「――どんな方なのかしら」


 自然と口から漏れたのは、知代の夫、孝太郎のことだった。


 物腰の静かな人なのか、それとも少し年上で厳しい人なのか。彼女が「許可を取った」と書くあたり、やはり格式のある家柄なのだろうか――。


 想像は尽きないけれど、不思議と不安はなかった。

 窓の外には、夕暮れの光がわずかに残っている。


 胸の奥に、わくわくと小さな火が灯ったような思いを抱えながら、茉莉花は椅子の背にもたれ、しばらく静かに、便箋を見つめ続けていた。




 週末の午後、茉莉花は、浅い藤色のワンピースに身を包み、帽子を軽く傾けて島田邸を訪れた。

 日差しはすでに初夏の強さを帯びていたが、風はまだ涼しく、街路樹の葉をさらさらと揺らしていた。


 玄関に通されると、すぐに扉が開き、知代が現れた。


「いらっしゃい、茉莉花」


 その声は、以前と変わらず静かで、けれどどこか柔らかみが増しているように感じられた。


 奥では、つねがにこやかに頭を下げる。彼女は最初から茉莉花の名を覚えていたようで、「お越しいただいて、本当にうれしいことでございます」と深々と礼を述べた。


 案内された応接室に床に並んで腰を下ろすと、自然に話し始めた。はじめは近況の交換だったが、やがて言葉は自然と深いところへと進んでいった。


 知代は、師範学校での日々について語った。試験のこと、初めての講義、実習で出向いた小学校の子供たちの様子、同級生の文子のこと――

 特に、教室で自分の席を整えることすら久しぶりで嬉しかった、という話には、茉莉花も胸を打たれた。


 茉莉花もまた、自分の仕事のことを語った。庁舎のこと、毎日交わされる書簡、同僚たちのこと、時に回ってくる翻訳の難しさと喜び。


「……言葉の意味をひとつ選ぶだけでも、ずいぶんと考えるの。似た語でも、相手国の事情や文脈でずれてしまうから。翻訳って、まるで人の間に架け橋をかけるような作業だと思うの」


 そう語る茉莉花の目は、まっすぐで静かだった。知代は、変わらぬ友の中に確かな芯の強さを感じ取った。


 ひとしきり話が落ち着いた頃、茉莉花は、湯飲みに手を添えたまま、少し遠慮がちに尋ねた。


「……その、ご主人様は、どんな方なのかしら」


 知代は、ふと目を伏せた。


 答えに戸惑っているのではなく、言葉を探しているようだった。そして、ゆっくりと口を開いた。


「……穏やかな人よ。静かで、声を荒げることもないし、無理に何かを求めてくることもないの。最近は、少しずつ一緒にいて安心できるようになってきた気がするわ」


 茉莉花は、ふっと表情をやわらげた。


 けれど知代は、すぐに続けた。


「でも……どう距離を縮めればいいのか、まだ分からないの。同居人として過ごしてはいるけれど、まだ……本当に、心から近くにいる、って感覚じゃないの」


 その言葉には、羞じらいでも不安でもなく、ただ素直な戸惑いがあった。

 茉莉花はしばらく黙って、知代の横顔を見つめた。視線は伏せられていたが、手元には力が入っていた。


 そして、そっと言った。


 「……それは、知代に合わせてくれてるってことじゃないかしら。ご主人様は、あなたの歩調に合わせて、少しずつ進もうとしてるのよ」


 その一言に、知代の瞳がふと揺れた。


 そういえば、あの机を運んでくれた時も、彼は無言で、自分の過去を受け入れるようにしてくれていた。

 何も強い言葉はなかったけれど、その何もしないことこそが、思いやりだったのかもしれない。


 「……そう、かもしれないわね」


 知代は静かに微笑んだ。その笑顔は、これまで茉莉花が見たどの知代の笑顔より、穏やかで、温かかった。

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