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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第二部:茉莉花編
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十七話

 窓の外が、まだ薄青い曇りガラスのような色をしていた。

 鳥の声が、遠くで短く鳴いた。目覚まし時計の針は、五時を少し回ったところ。


 朝倉茉莉花は、目を覚ますと同時に、すっと身を起こした。布団をたたみ、部屋の片隅に寄せると、肩にショールを羽織って、迷いなく机に向かう。


 その部屋は、時代の中で独特の静謐さをまとっていた。

 壁は淡いミントグリーンに塗られ、白木のモールディングが走る。窓枠にはレースのカーテンがかかり、真鍮のスタンドランプが机の上に控えている。

 大ぶりの机の天板は滑らかな栗材で、開き戸付きの小書棚が並ぶ。並べられた本の背表紙は、英語、仏語、そして法政に関する和綴じの書籍が混在していた。


 部屋の中央には小ぶりの鏡台。背の高い洋服箪笥の脇には、床まで届く丈の姿見が据えられており、床には外国製の小花模様のラグが敷かれている。可愛らしさというより、洗練――そんな言葉がふさわしい部屋だった。


 机の上には、読みかけの英書が一冊置かれている。


 "Pride and Prejudice"。ジェイン・オースティンのあの一冊。


 茉莉花は、それとまったく同じ装丁の一冊を、つい先日、知代に譲ったばかりだった。


 そっと頁を繰ると、紙の香りがかすかに立ちのぼった。


 英語の小説を読むのは、趣味であり、訓練でもある。翻訳補助官としての仕事に直接役立つという理由だけでなく、茉莉花にとっては、世界の空気に触れるための手段だった。


 部屋の隅には、以前通っていた女子英学塾の証書が額装されてかけている。

 あの頃、ひとつの道を選んだ自分にとって、これはもう戻れぬ場所ではなく、自らの意思で立っている現在地の証だった。


 


 やがて時計の針が六時を指す頃になると、茉莉花は読書を切り上げ、立ち上がって洋服箪笥を開けた。


 今日は出勤日――大手町、逓信省の本庁舎へ。翻訳補助官であり、タイピストでもある彼女は、官僚たちと共に英文の書類に向き合う日々を送っている。


 白いシャツに替えて、今日選んだのは、柔らかなオフホワイトの絹混ブラウス。衿元には細かなプリーツが入り、くるみボタンが控えめに並んでいる。下には濃紺のウールスカートを合わせ、足元には黒いストッキングを履く。

 髪を手早くまとめ鏡の前で姿勢を正すと、きりっとした横顔が、鏡に映った。


 

 一階に降りると、すでに家の空気は朝の気配に満ちていた。

 廊下の先から、兄・修吾が大きな鞄を手に、急ぎ足で出てくる。大学病院の内科勤務医である修吾は、毎朝六時半には出勤する。


「いってきます!」


「お兄様、傘は?」


「今日は降らないって言ってた!新聞に書いてあった!」


 靴音を響かせて玄関を出ていく背を見送りながら、茉莉花はふっと笑った。


 奥の部屋では、父・慶一郎が朝刊を広げ、椅子にゆったりと座っていた。


「おはよう、お父様」


「おはよう、茉莉花」


 顔を上げた父の笑顔は、穏やかで温かい。眼鏡の奥の目元には、昨日も今日も、そしてたぶん明日も変わらぬ優しさが宿っている。


「修吾は今日も早いな」


「病棟の回診があるそうです。お父様は、今日は午前の診療だけ?」


「うむ。午後は往診が一本だけある」


 そのやりとりの間に、台所から香ばしい匂いが漂ってくる。


 茉莉花がふと振り向くと、母・綾子が割烹着姿で膳の準備を進めながら、ちらりとこちらを見やった。


「茉莉花、そろそろ……良い話のひとつくらい、ないのかしら」


 茶碗を手にしながら、ごく自然な調子で投げかけられたその言葉に、茉莉花は少し目を丸くした。


 けれど、すぐに微笑み、肩をすくめる。


「お母様、今は仕事が恋人なの。書類の山に囲まれていると、他のことが入る隙がないんです」


「もう……」と綾子が困った顔をする横で、慶一郎は口元を綻ばせた。


「それでいい。無理に結婚することはない。お前に茉莉花という名を与えたときから、私はずっと思っているよ。綺麗なものは、どこに咲いても綺麗だ。誰かの影でなく、自分の陽の下で咲くのが似合う子だとな」


 その言葉に、茉莉花の心がすっとほどけるように温かくなった。


 ――そう、父が常に言っている。「異国の香りがしても、どこで咲いてもいい。花は、咲く場所で決まるのではなく、そのものの美しさで咲くのだ」と。


 その言葉に育てられたから、私は、ここに立っている。

 そう思うと、胸の奥で何かが静かに灯るのを感じた。




 朝の街には、少しひんやりとした風が流れていた。


 茉莉花は、横浜の洋館風の玄関を後にして、レースのスカーフを首元に巻きながら、石畳の坂を小走りに下る。

 通勤の列車に乗るまでの道には、通学の学生、帽子を被った紳士たちの姿も多く、活気に満ちていた。


 汽車を一本乗り継ぎ、東京市の中心――大手町へ。

 駅の階段を上がると、眼前には重厚な庁舎が並び、黒塗りの車が門前に停まっていた。帽子をかぶった衛兵が門を守り、官僚たちは揃いの洋服で足早に中へ入っていく。


 逓信省の庁舎は、煉瓦と石造りの洋風建築で、白いアーチの玄関と、真鍮の取っ手がついた大扉が迎えてくる。

 まだ朝の斜光が庁舎の窓に差し込み、廊下の白い漆喰の壁に、淡い光を映していた。


 茉莉花は庁舎の裏手、通用門から入り、タイピストや事務官たちが使う階段をすっと上がる。三階の執務室――そこが、彼女の職場だ。


 部屋には、真っ直ぐな木机が十列ほど並んでおり、若い女性たちがそれぞれの席に着いて、手紙の写しや文書の浄書にあたっていた。

 タイプライターの打鍵音が、間断なく小気味よく響いている。


 その一角、窓際に近い机に、茉莉花は静かに腰を下ろした。


 ――その端正な佇まいは、庁舎の中でもひときわ目を引いた。


 周囲には、女学校や女子商業出身の女性たちが多く、タイプはできても、英語や翻訳となると手を引く者がほとんどだった。

 だが、茉莉花だけは違った。


 タイピストでありながら、翻訳にも通じた特別な存在。たびたび、上席の官吏から直接仕事を依頼されることもある。


「朝倉さん、昨日のインドからの英文書簡、訳せましたか?」


 と、局長補佐が彼女の机にやってきた。


 茉莉花は、滑らかな手つきで原稿の一部を差し出す。


「第一段落までは仮訳を終えております。ご確認いただければ、残りもすぐに仕上げます」


 その一言に、補佐の顔が明るくなる。


「助かります。……やはり君に頼んで正解だった」


 周囲の女性たちがその様子をちらりと見て、また黙って手元に戻る。

 茉莉花は、決して威張らず、必要以上に目立たず、ただ真面目に、ひたすら的確に仕事をこなす。

 だからこそ、尊敬と、少しの距離感をもって扱われていた。


 午前中はタイプと翻訳、午後には電話応対と英文の下訳が二件。

 茉莉花は昼休みに弁当を開く間にも英単語帳を手放さず、辞書を引きながら小声で構文を読み上げていた。


「……休んだら?」と声をかけた同僚に、「ええ、これも休息のうちです」と柔らかく返す。


 午後五時。庁内の時計が鳴り、女性職員たちが次々と椅子を引くなか、茉莉花は最後までキーを打ち続けた。

 原稿用紙の端に日付と自筆の署名を書き入れ、ひとつ深く息を吐いてから席を立つ。


 窓の外では、大手町の街に夕暮れの影がゆっくりと差し込んでいた。


 ――今日もまた、しっかり働いた。


 鞄に辞書と手帳を収め、帽子を取り出して鏡で整え、茉莉花は庁舎をあとにする。


 帰り道、空にはかすかな夕月。

 働くことが、まるで自然なことのように、彼女の背筋は一日を終えてもなお凛と伸びていた。

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