十六話
道の左右に、淡い桃色の花がぽつぽつと咲いている。
春の夕暮れは穏やかで、日が傾いても空はまだ白く、街路の硝子窓にはほのかな茜が映り込んでいた。
知代と孝太郎が並んで歩いていたそのとき、後方から、ぱたぱたと軽やかな足音が駆けてきた。
「ちょっと!おいていくなよ、島田」
明るく通る声に振り返れば、先ほど娘たちに囲まれていた男――早瀬俊哉が、にこやかな顔をして追いついてきた。
「お前が寄り道ばかりするからだろう」
孝太郎は少し眉を上げて振り返るが、どこか呆れ半分、馴れた調子だ。
「はは、そんな冷たいこと言うなって。たまには俺にも優しくしてよ」
と、言ってから俊哉は知代の方に顔を向け、にっこりと笑う。
「ごきげんよう、奥様。お会いできて嬉しいです」
その軽やかさに戸惑いつつも、知代は少し驚いたように背を伸ばし、丁寧に会釈した。
「……はじめまして。島田知代と申します。いつも主人が……お世話になっております、早瀬さん」
「やだなあ、俊哉でいいですよ。ねっ?」
瞳を細めてにっこりと笑いながら、まるで旧知の友人にでも言うような軽さで応じる。
「そ、そんな……だ、旦那様のことも、お名前でお呼びしたことがないのに……」
知代がそうこぼしながら目を伏せると、俊哉は声を上げて笑った。
「……ほらな、いきなり距離詰めすぎだ、お前は」
孝太郎が腕を組みながら言うと、俊哉は肩をすくめて笑いながら、
「わかってるって。そこまで俺も馬鹿じゃないさ。手ぇなんて出しませんよ、安心しなよ」
「信用できないな」
「ひどいなあ、島田は」
軽口を交わすふたりの様子を見ながら、知代は内心で小さく驚いていた。
孝太郎が、笑っている――というより、肩の力を抜いて、誰かと対等に言葉を交わしている姿。
いつもの家の中では見せない、ほんの少し砕けた空気を纏った彼は、どこか新鮮だった。
俊哉はその後も調子よく話を続け、やがて孝太郎の職場の話へと移っていった。
「この人ね、真面目すぎてさ。月初めの書類整理で一回、帳簿が一枚足りなかったとき、事務机の下まで這いつくばって探してたんだぜ。昼飯抜きで」
「……お前がその帳簿で紙飛行機を折ってたんだろう。人の机に放り込んで」
「バレてた!?うわ、やっぱり怖いよなあ島田は、どこ見てるかわかんない」
「いや、気づいたのは三日後だ」
「三日間、ずっと真剣に悩んでたってこと? やめてよ、罪悪感が……ないかも」
くすり、と知代の口元が緩む。
次の瞬間、堪えきれずにふふっと声を立てて笑っていた。
その自分に気づいて、はっと手を口元に添えるが、それでも笑いの名残は頬のあたりにふわりと灯っていた。
孝太郎も一瞬、驚いたように知代を見やったが、すぐに静かな笑みに変わった。
やがて、帰路の分かれ道にさしかかる。俊哉は道の中央で立ち止まり、ふたりを振り返った。
「じゃあ、僕はこっち。――知代さん、またお会いしましょう」
にこやかに、チャラついた口調のまま、彼は「知代さん」と親しげに名を呼んで手を振った。知代は戸惑いながらも、小さく礼をして応えた。
孝太郎は肩をすくめ、何も言わなかったが、歩き出した足取りにはほんの僅か、柔らかな調子が加わっていた。
その隣を歩きながら、知代は静かに思っていた。
――たった数歩だけれど、自分もこの人に、近づけたような気がすると。
夕暮れがすっかり夜に変わる頃、ふたりは家へと戻ってきた。
玄関の戸を開けると、家の中には誰の気配もなく、ただ懐かしい米と味噌の匂いが、温もりとともに迎えてくれた。
「……つねさん、もう帰られたようですね」
知代がぽつりと呟くと、孝太郎は廊下の明かりを点けながら頷いた。
「ええ。きっと膳を用意してくださっているはずです」
台所に行ってみると、二人分の夕膳が几帳面に並べられていた。
炊き立てのご飯、豆腐と菜の味噌汁、鰆の幽庵焼き、小鉢に胡麻和えが添えられている。すべてが静かに湯気をたてていた。
居間に膳を運び、正座して向かい合う。箸を取る音が静かに響くなか、知代がふと思い出したように口を開いた。
「……早瀬さん、面白い方でしたね」
孝太郎は箸の手を止めかけ、少しだけ視線を逸らした。
「……知代さん、」
その呼びかけは、声というより、迷いの混じったひと息のようだった。続く言葉を探すように間が空いたあと、わずかに口元を整える。
「……と、呼ばれていましたね。彼に」
知代は一瞬きょとんとしたが、すぐに頬をわずかに染め、箸先を見つめた。
沈黙が落ち着きかけたとき、孝太郎がふいに、少しだけ声を潜めて言った。
「……俺も、そう呼んでも?」
知代は目を見開いた。顔を上げると、孝太郎の目がじっとこちらを見ていた。
先ほど俊哉の前で、彼女が初めて声を出して笑った、その柔らかな顔が、孝太郎の脳裏に強く残っていた。あの笑顔を、もっと見てみたい――そんな思いが、彼自身も知らぬまま、胸の内を静かに揺らしていた。
そして、その言葉に胸が揺さぶられたのは、知代も同じだった。
(……俺?)
これまでずっと「私」と言っていた人――仕事のように、距離を置いた言葉を選んでいたはずの人が、今、初めてそう口にした。
その一語が、やわらかく胸の奥に触れた気がした。
「……もちろんです。あの……私も、お呼びしてもよろしいでしょうか」
「……ええ」
ゆっくりと頷いた孝太郎の前で、知代はそっと目を伏せ、そして、
「……孝太郎様」
初めて、その名を呼んだ。
息を整えるような、慎ましくも確かな声音だった。
孝太郎もまた、少しだけ目を伏せたのち、ふと顔を上げる。
ふたりは目を合わせ、そして、ほんのわずかに、口元を緩めた。
食卓の間に流れる空気が、どこかやさしく、穏やかに変わっていた。




