表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第一部:知代編
16/70

十六話

 道の左右に、淡い桃色の花がぽつぽつと咲いている。

 春の夕暮れは穏やかで、日が傾いても空はまだ白く、街路の硝子窓にはほのかな茜が映り込んでいた。


 知代と孝太郎が並んで歩いていたそのとき、後方から、ぱたぱたと軽やかな足音が駆けてきた。


「ちょっと!おいていくなよ、島田」


 明るく通る声に振り返れば、先ほど娘たちに囲まれていた男――早瀬俊哉が、にこやかな顔をして追いついてきた。


「お前が寄り道ばかりするからだろう」


 孝太郎は少し眉を上げて振り返るが、どこか呆れ半分、馴れた調子だ。


「はは、そんな冷たいこと言うなって。たまには俺にも優しくしてよ」


 と、言ってから俊哉は知代の方に顔を向け、にっこりと笑う。


「ごきげんよう、奥様。お会いできて嬉しいです」


 その軽やかさに戸惑いつつも、知代は少し驚いたように背を伸ばし、丁寧に会釈した。


「……はじめまして。島田知代と申します。いつも主人が……お世話になっております、早瀬さん」


「やだなあ、俊哉でいいですよ。ねっ?」


 瞳を細めてにっこりと笑いながら、まるで旧知の友人にでも言うような軽さで応じる。


「そ、そんな……だ、旦那様のことも、お名前でお呼びしたことがないのに……」


 知代がそうこぼしながら目を伏せると、俊哉は声を上げて笑った。


「……ほらな、いきなり距離詰めすぎだ、お前は」


 孝太郎が腕を組みながら言うと、俊哉は肩をすくめて笑いながら、


「わかってるって。そこまで俺も馬鹿じゃないさ。手ぇなんて出しませんよ、安心しなよ」


「信用できないな」


「ひどいなあ、島田は」


 軽口を交わすふたりの様子を見ながら、知代は内心で小さく驚いていた。


 孝太郎が、笑っている――というより、肩の力を抜いて、誰かと対等に言葉を交わしている姿。

 いつもの家の中では見せない、ほんの少し砕けた空気を纏った彼は、どこか新鮮だった。


 俊哉はその後も調子よく話を続け、やがて孝太郎の職場の話へと移っていった。


「この人ね、真面目すぎてさ。月初めの書類整理で一回、帳簿が一枚足りなかったとき、事務机の下まで這いつくばって探してたんだぜ。昼飯抜きで」


「……お前がその帳簿で紙飛行機を折ってたんだろう。人の机に放り込んで」


「バレてた!?うわ、やっぱり怖いよなあ島田は、どこ見てるかわかんない」


「いや、気づいたのは三日後だ」


「三日間、ずっと真剣に悩んでたってこと? やめてよ、罪悪感が……ないかも」


 くすり、と知代の口元が緩む。


 次の瞬間、堪えきれずにふふっと声を立てて笑っていた。

 その自分に気づいて、はっと手を口元に添えるが、それでも笑いの名残は頬のあたりにふわりと灯っていた。


 孝太郎も一瞬、驚いたように知代を見やったが、すぐに静かな笑みに変わった。


 


 やがて、帰路の分かれ道にさしかかる。俊哉は道の中央で立ち止まり、ふたりを振り返った。


「じゃあ、僕はこっち。――知代さん、またお会いしましょう」


 にこやかに、チャラついた口調のまま、彼は「知代さん」と親しげに名を呼んで手を振った。知代は戸惑いながらも、小さく礼をして応えた。


 孝太郎は肩をすくめ、何も言わなかったが、歩き出した足取りにはほんの僅か、柔らかな調子が加わっていた。


 その隣を歩きながら、知代は静かに思っていた。

 ――たった数歩だけれど、自分もこの人に、近づけたような気がすると。




 夕暮れがすっかり夜に変わる頃、ふたりは家へと戻ってきた。

 玄関の戸を開けると、家の中には誰の気配もなく、ただ懐かしい米と味噌の匂いが、温もりとともに迎えてくれた。


「……つねさん、もう帰られたようですね」


 知代がぽつりと呟くと、孝太郎は廊下の明かりを点けながら頷いた。


「ええ。きっと膳を用意してくださっているはずです」


 台所に行ってみると、二人分の夕膳が几帳面に並べられていた。

 炊き立てのご飯、豆腐と菜の味噌汁、鰆の幽庵焼き、小鉢に胡麻和えが添えられている。すべてが静かに湯気をたてていた。


 居間に膳を運び、正座して向かい合う。箸を取る音が静かに響くなか、知代がふと思い出したように口を開いた。


「……早瀬さん、面白い方でしたね」


 孝太郎は箸の手を止めかけ、少しだけ視線を逸らした。


「……知代さん、」


 その呼びかけは、声というより、迷いの混じったひと息のようだった。続く言葉を探すように間が空いたあと、わずかに口元を整える。


「……と、呼ばれていましたね。彼に」


 知代は一瞬きょとんとしたが、すぐに頬をわずかに染め、箸先を見つめた。

 沈黙が落ち着きかけたとき、孝太郎がふいに、少しだけ声を潜めて言った。


 「……俺も、そう呼んでも?」


 知代は目を見開いた。顔を上げると、孝太郎の目がじっとこちらを見ていた。


 先ほど俊哉の前で、彼女が初めて声を出して笑った、その柔らかな顔が、孝太郎の脳裏に強く残っていた。あの笑顔を、もっと見てみたい――そんな思いが、彼自身も知らぬまま、胸の内を静かに揺らしていた。


 そして、その言葉に胸が揺さぶられたのは、知代も同じだった。


(……俺?)


 これまでずっと「私」と言っていた人――仕事のように、距離を置いた言葉を選んでいたはずの人が、今、初めてそう口にした。

 その一語が、やわらかく胸の奥に触れた気がした。


「……もちろんです。あの……私も、お呼びしてもよろしいでしょうか」


「……ええ」


 ゆっくりと頷いた孝太郎の前で、知代はそっと目を伏せ、そして、


「……孝太郎様」


 初めて、その名を呼んだ。


 息を整えるような、慎ましくも確かな声音だった。

 孝太郎もまた、少しだけ目を伏せたのち、ふと顔を上げる。


 ふたりは目を合わせ、そして、ほんのわずかに、口元を緩めた。

 食卓の間に流れる空気が、どこかやさしく、穏やかに変わっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ