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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第六部:茉莉花編
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七十話

 階下の居間では、綾子が茶器を整えたまま、何度目かの小さなため息をついていた。


 柱時計が、午後の半端な時刻を鳴らす。ふだんなら昼食の片づけも終えている頃だというのに、落ち着かぬ手つきで座布団の端を整えたり、急須の蓋を開けたり閉めたりしていた。


 階段のきしみが聞こえたのは、そんな折だった。

 ぱたぱたと続いた足音に、綾子がふっと顔を上げると――


「お待たせしました」


 にこりと笑って俊哉が居間に現れた。その表情は、いつか見た調子の良い青年のそれで、どこか芝居がかったほどの爽やかさがあった。


「すっかり仲直りいたしました。僕の至らなさで、不安にさせてしまって、本当に申し訳ありません」


 言葉こそ軽やかだったが、その口ぶりに妙な誠実さが滲んでいて、綾子は戸惑いつつも言葉を飲み込む。


 後ろから続いて入ってきた茉莉花は、いつになく穏やかな顔をしていた。

 母に向かって、ゆっくりと頷く。

 その目の奥には、張りつめていたものが少しほどけて、静かな光が宿っていた。


「まあ……あらあら……」


 綾子はあっけに取られながらも、娘のそんな表情を見て、思わず胸に手を当てた。


 こんな顔を――自分の娘が、こんな安らいだ顔をするのを、初めて見たかもしれない。あの強情で、負けず嫌いで、何を言っても頷かなかった茉莉花が。


「……じゃあ、また改めて、きちんとご挨拶に伺います」


 俊哉が一礼すると、綾子は慌てて立ち上がった。


「ええ、ええ。……それじゃあ、ほんとうに……仲直り、できたのね?」


「はい。……もう逃げられませんから」


 俊哉が茉莉花の方を見て笑うと、彼女もわずかに頬を染めてうなずいた。




 門を出た俊哉の背に、茉莉花が声をかけた。


「駅まで、お送りします」


「え?わざわざいいのに」


「……送ります」


 そっけない口調だったが、その足取りはどこか軽やかで、風に揺れる襟元に秋の柔らかい陽が当たっていた。


 歩き出してしばらく、並ぶ二人のあいだに、ぽつりと俊哉が声を落とした。


「……本当に、結婚してくれるんですか?」


 茉莉花は、ふっと横を見た。いたずらっぽい目で、口の端をわずかに持ち上げる。


「いま、それを聞き直しますか?私がいいえって言ったら、どうするんです?」


 俊哉は、困ったように笑って小さく肩をすくめた。


「……逃げられてから、ずっと不安で」


「へえ。あなたでも、不安になることなんてあるんですね」


 からかうような声で返す茉莉花に、俊哉は肩を竦めて答える。


「おやおや。やっぱり茉莉花さんは、手厳しい」


「当然でしょう」


 二人の笑いが重なる。周囲の往来の音が、遠くなるようだった。


 やがて駅前にたどり着く。

 俊哉が立ち止まり、茉莉花も並んで立つ。


「じゃあ、また」


 そう言いかけた俊哉の横顔に、茉莉花がそっと背伸びして近づいた。

 耳元に、そっと囁く。


「……約束したのだから、ずっと傍にいてくださいね」


 ――俊哉さん。


 俊哉は、一瞬目を瞬かせ、それからゆっくりと微笑んだ。

 その笑顔には、何の誇張もなかった。ただ、深い安堵と幸福が滲んでいた。




 病室の窓辺には、秋の光が斜めに差し込んでいた。

 葉を落とし始めた桜の枝が、すぐ外の庭に伸びている。夏の濃い緑はすっかり色褪せ、枯れた葉が風に揺れて、時折ひとひら、静かに舞い落ちる。


 そんな午後の光のなかで、朝倉慶一郎はベッドにもたれ、目を細めていた。点滴の管は細く腕に繋がれ、体の動きは小さくなったが、目の奥の輝きは失われていなかった。


 コン、と軽く扉が叩かれる。


「……お父様」


 そう呼びかける声に、慶一郎の顔がぱっと明るくなる。


 扉を開けて入ってきたのは、長く黒髪を結い、淡い鼠色の上着に身を包んだ娘――茉莉花だった。

 その姿に、慶一郎は深く安堵したように目を細め、ゆっくりと体を起こそうとする。


「茉莉花、来てくれたのか」


「ええ。……お変わりないですか?」


 茉莉花が近寄って手を差し出すと、慶一郎はその手を両手で包み込むように握った。

 柔らかく、どこか熱のこもった、父の掌。

 けれどその次の瞬間、扉の奥からもう一人の足音が静かに響いた。


 茉莉花の背後から現れたのは、見慣れない、爽やかな風をまとった若い男だった。

 濃紺の背広に帽子を手に持ち、深く一礼する。


 一瞬、父の目に懸念の色が浮かぶ。


 けれど、次の瞬間――

 娘の顔を見て、その懸念はすっと消えた。


 茉莉花の目元は、いつものような張り詰めた強さではなかった。

 眉も、口元も、まるで春の光に包まれたように、やわらかくほどけていた。


 それは、どんな薬や診立てよりも、父に安心を与えるものだった。


 まっすぐ立つ男の横で、茉莉花が一歩前に出た。

 そして、まっすぐに父の目を見つめる。


 「――お付き合いしている方がいるのです」

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