七十話
階下の居間では、綾子が茶器を整えたまま、何度目かの小さなため息をついていた。
柱時計が、午後の半端な時刻を鳴らす。ふだんなら昼食の片づけも終えている頃だというのに、落ち着かぬ手つきで座布団の端を整えたり、急須の蓋を開けたり閉めたりしていた。
階段のきしみが聞こえたのは、そんな折だった。
ぱたぱたと続いた足音に、綾子がふっと顔を上げると――
「お待たせしました」
にこりと笑って俊哉が居間に現れた。その表情は、いつか見た調子の良い青年のそれで、どこか芝居がかったほどの爽やかさがあった。
「すっかり仲直りいたしました。僕の至らなさで、不安にさせてしまって、本当に申し訳ありません」
言葉こそ軽やかだったが、その口ぶりに妙な誠実さが滲んでいて、綾子は戸惑いつつも言葉を飲み込む。
後ろから続いて入ってきた茉莉花は、いつになく穏やかな顔をしていた。
母に向かって、ゆっくりと頷く。
その目の奥には、張りつめていたものが少しほどけて、静かな光が宿っていた。
「まあ……あらあら……」
綾子はあっけに取られながらも、娘のそんな表情を見て、思わず胸に手を当てた。
こんな顔を――自分の娘が、こんな安らいだ顔をするのを、初めて見たかもしれない。あの強情で、負けず嫌いで、何を言っても頷かなかった茉莉花が。
「……じゃあ、また改めて、きちんとご挨拶に伺います」
俊哉が一礼すると、綾子は慌てて立ち上がった。
「ええ、ええ。……それじゃあ、ほんとうに……仲直り、できたのね?」
「はい。……もう逃げられませんから」
俊哉が茉莉花の方を見て笑うと、彼女もわずかに頬を染めてうなずいた。
門を出た俊哉の背に、茉莉花が声をかけた。
「駅まで、お送りします」
「え?わざわざいいのに」
「……送ります」
そっけない口調だったが、その足取りはどこか軽やかで、風に揺れる襟元に秋の柔らかい陽が当たっていた。
歩き出してしばらく、並ぶ二人のあいだに、ぽつりと俊哉が声を落とした。
「……本当に、結婚してくれるんですか?」
茉莉花は、ふっと横を見た。いたずらっぽい目で、口の端をわずかに持ち上げる。
「いま、それを聞き直しますか?私がいいえって言ったら、どうするんです?」
俊哉は、困ったように笑って小さく肩をすくめた。
「……逃げられてから、ずっと不安で」
「へえ。あなたでも、不安になることなんてあるんですね」
からかうような声で返す茉莉花に、俊哉は肩を竦めて答える。
「おやおや。やっぱり茉莉花さんは、手厳しい」
「当然でしょう」
二人の笑いが重なる。周囲の往来の音が、遠くなるようだった。
やがて駅前にたどり着く。
俊哉が立ち止まり、茉莉花も並んで立つ。
「じゃあ、また」
そう言いかけた俊哉の横顔に、茉莉花がそっと背伸びして近づいた。
耳元に、そっと囁く。
「……約束したのだから、ずっと傍にいてくださいね」
――俊哉さん。
俊哉は、一瞬目を瞬かせ、それからゆっくりと微笑んだ。
その笑顔には、何の誇張もなかった。ただ、深い安堵と幸福が滲んでいた。
病室の窓辺には、秋の光が斜めに差し込んでいた。
葉を落とし始めた桜の枝が、すぐ外の庭に伸びている。夏の濃い緑はすっかり色褪せ、枯れた葉が風に揺れて、時折ひとひら、静かに舞い落ちる。
そんな午後の光のなかで、朝倉慶一郎はベッドにもたれ、目を細めていた。点滴の管は細く腕に繋がれ、体の動きは小さくなったが、目の奥の輝きは失われていなかった。
コン、と軽く扉が叩かれる。
「……お父様」
そう呼びかける声に、慶一郎の顔がぱっと明るくなる。
扉を開けて入ってきたのは、長く黒髪を結い、淡い鼠色の上着に身を包んだ娘――茉莉花だった。
その姿に、慶一郎は深く安堵したように目を細め、ゆっくりと体を起こそうとする。
「茉莉花、来てくれたのか」
「ええ。……お変わりないですか?」
茉莉花が近寄って手を差し出すと、慶一郎はその手を両手で包み込むように握った。
柔らかく、どこか熱のこもった、父の掌。
けれどその次の瞬間、扉の奥からもう一人の足音が静かに響いた。
茉莉花の背後から現れたのは、見慣れない、爽やかな風をまとった若い男だった。
濃紺の背広に帽子を手に持ち、深く一礼する。
一瞬、父の目に懸念の色が浮かぶ。
けれど、次の瞬間――
娘の顔を見て、その懸念はすっと消えた。
茉莉花の目元は、いつものような張り詰めた強さではなかった。
眉も、口元も、まるで春の光に包まれたように、やわらかくほどけていた。
それは、どんな薬や診立てよりも、父に安心を与えるものだった。
まっすぐ立つ男の横で、茉莉花が一歩前に出た。
そして、まっすぐに父の目を見つめる。
「――お付き合いしている方がいるのです」




