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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第一部:知代編
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十三話

 夜明けの空は、まだ灰色と藍のあいだに揺れていた。けれど知代は、そのわずかな光の変化に気づいて、いつもの癖で目を覚ました。

 隣の布団には、まだ静かな寝息が聞こえている。息を詰めるように身を起こし、羽織を肩にかけて、足音を忍ばせて階下へと降りた。


 台所は、しんと静まり返っていた。竈に火を入れ、湯を沸かす。味噌を溶き、残っていた芋と葱を刻む。

 小鍋で炊いた米に香ばしい香が立ち上り、香の物を小皿に分けるころには、夜明けの光が障子の縁をうっすらと照らしていた。


 やがて、勝手口が開いて、つねが入ってきた。


「おはようございます、知代様……まあ、まあ」


 知代は思わず顔を伏せ、手を拭きながら一礼した。


「申し訳ございません。勝手に台所を……」


「いいえ、なんとまあ、ありがたいことです」


 つねはふんわりと笑みを浮かべた。ふっくらとした頬の皺がいっそう柔らかくなる。


「でも、明日からは私にお任せくださいね」


「……はい。ありがとうございます」


 知代は静かに頭を下げた。


 間もなく階段の軋む音がして、孝太郎が降りてきた。寝間着から着替えを済ませ、髪もきちんと整っている。居間に入ると、三人で揃って膳を囲むことになった。


 この家では、女中も共に食卓につくのだ――それが知代には少し不思議で、けれど、どこかほっとすることでもあった。


 つねは、湯呑に茶を注ぎながら、陽気に話す。


「今日は良い天気になりそうですねえ。昨日の夕方なんか、西の雲がね、まるで薄焼き煎餅みたいに広がってて」


 孝太郎は小さく頷きながら、味噌汁に口をつけた。


「……そうですね。乾いた北風が吹いていましたから、今朝はよく晴れるはずです」


「ええ、ええ。洗濯物が乾くのはありがたいことでございますよ」


 つねの言葉に、知代も思わず微笑みそうになった。


 ふと、昨夜孝太郎が言っていた「穏やかな会話」とは、こうしたやりとりのことなのだろうと思う。派手な笑い声も、抑揚の強い言葉もない。

 ただ静かに、言葉を交わしながら朝の食事を取る――その時間が、じんわりと胸に染みた。


 朝食を終えると、孝太郎は支度を整えて玄関に立った。知代とつねが並んでその背を見送る。


「では、行ってまいります」


「いってらっしゃいませ、坊ちゃま」


「……いってらっしゃいませ」


 扉の閉まる音がして、黒塗りの靴音が石畳を遠ざかっていく。知代は、その音が角を曲がるまで、まっすぐに見送っていた。


「さあ、奥に戻って、少し休んでくださいな」


 と、つねが台所に向かいながら言った。


「……お手伝いさせてください。私、動いていた方が落ち着きますから」


 知代は思わずそう言ったが、つねは首を横に振って、やさしく目を細めた。


「いえいえ。知代様には、勉強していただくよう仰せつかっておりますのよ。家事は私に任せて、まずはご自分の務めをなさってくださいな」


 つねの言葉に感謝してふと二階へ上がってみると、知代の部屋の襖がすでにわずかに開いていた。


 中を覗くと、文机が静かに置かれ、本は丁寧に積み重ねられていた。昨日、玄関先にあったあの荷物たちだ――孝太郎が、朝のうちに運び込んでくれたのだろう。


「坊ちゃま、お一人で朝早くから……あの机、重いのに」


 背後からつねの声が聞こえた。


「実は、このお部屋、三日で仕立てたんですよ。お布団も、お着物の箪笥も、家具屋さんが急いでくれましてね」


 知代は深く頭を下げた。


「ありがとうございます、本当に……」


「いえいえ。ここが、知代様の落ち着ける場所になりますように。――それだけですわ」


 知代はしばし言葉が出せず、襖の敷居に目を落としたまま、静かに頷いた。


 その後、机の引き出しを開け、洋書と和文の教科書、鉛筆、帳面を取り出すと、知代は膝を正し、椅子の代わりに座布団に座って筆を取った。


 窓から差し込む日差しはやわらかく、部屋の中を穏やかに温めていた。

 静けさのなかで、頁をめくる音が、遠く鳥のさえずりと重なった。

 そうして知代の、新しい一日が始まった。



 暮れなずむ空が、硝子越しに茜から群青へと変わりゆく頃、知代は居間の火鉢の側でじっと座っていた。

 夕餉はすでに用意してあった。つねが帰った後も、本を片手に膳を整えながら、その時を待っていた。


 ――「待たなくていい」と言われていた。けれど、それでも。


 外の門が音を立てて開き、やがて戸の向こうで草履の音がした。知代はさっと立ち上がり、玄関へ向かう。


「……ただいま戻りました」


「おかえりなさいませ」


 濡れ縁に足をぬぐう音、鞄の留め金が外れる音。そのすべてが、静かに家に帰ってきたことを告げていた。


 居間に入ると、膳がすでに並んでいた。湯気の立つ味噌汁と、焼き鮭、おひたし、小さな煮しめ――素朴だが、どれも丁寧に整えられている。


 孝太郎は小さく眉を動かした。


「……言ったでしょう。待たなくてもいいと」


 知代は、膝の上で指を重ねたまま、小さく首を振る。


「……いえ」


 それ以上の説明はなかった。けれど、その一言に込められたものを、孝太郎は深く追及しようとはしなかった。


 ふたりは、静かに箸を取る。


「……今日は、どう過ごされましたか」


 食事の合間、孝太郎が口にした問いは、なんの飾りもない、ただ一日の始まりを知ろうとする言葉だった。


 知代はふと箸を止め、考える。


「……つねさんが、お昼におむすびを作ってくださいました。梅と、紫蘇と……ほんの少し、胡麻が混ざっていて……とても、美味しかったです」


「それから……机や本も運んでいただいてありがとうございました。勉強にも、集中できました」


 孝太郎は、箸の手を止めることなく、静かに頷いた。


「必要であれば、書斎の本棚も使ってください。勝手に入っていただいて、かまいません」


「……えっ」


 知代の声が、小さく漏れた。


「ですが……あの、書斎は……」


「あなたが学ぶために使うのであれば、それは私にとっても望ましいことです。誰も使わない本が並んでいるだけより、よほど有益でしょう」


 その言い方は、どこまでも簡素で、どこまでも誠実だった。

 知代は深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 再び口を閉ざすと、また静けさが戻る。けれど、その沈黙はどこか、昨日の夜よりも柔らかかった。


 食後、知代は片づけを済ませ、いつものように湯を沸かした。孝太郎が風呂に入り、知代がそのあとに続く。夜の空気は少し肌寒く、灯のにじむ階段を登るころには、手足が乾いた温もりに包まれていた。


 寝室には、昨夜と同じように並んだ布団がある。何も変わらず、けれど何かが、少しだけ違っていた。


 ふたりは、それぞれの布団に身を沈める。同じ天井を見つめ、同じ夜風の音を聞きながら、そっと目を閉じた。

 そうして、この家にふたりの夜が、またひとつ積み重ねられていった。


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