十二話
風呂から上がり、薄手の羽織を肩にかけて洗面所の明かりをくぐると、鏡の向こうに人影が映った。
孝太郎が、静かにそこに立っていた。
湯気がかすかに残る廊下の空気の中で、彼は浴衣姿のまま、何も言わずに知代を見ていた。
「……行きましょう」
低く、落ち着いたその声は、決して強いものではなかった。けれど、そのひと言が背筋をたしかに撫でる。知代は戸口でわずかに足を止めたが、やがて頷き、静かに歩き出した。
階段をのぼる足音が、夜の家に控えめに響く。すでにすべての灯りは落とされ、廊下には仄かな行燈の光が滲んでいた。
寝室の襖が開かれる。
そこには、二組の布団が並んで敷かれていた。
淡い色の掛け布団が、まるで境目を見せぬように並べられており、ただそれだけのことで、知代の肩がぴくりと震えた。
言葉はないまま、孝太郎が知代の横を通り過ぎる。音も立てずに布団のひとつの上に腰を下ろすと、向かいに座るようにと、片手でそっと合図した。
知代は躊躇いながらも畳に正座する。指先がきゅっと膝に添えられ、背筋をぴんと張っていた。
しばしの沈黙ののち、孝太郎が静かに口を開いた。
「……あなたにお伝えした条件、覚えておられますか」
その問いに、知代は小さく目を伏せ、唇を震わせながら頷いた。
「……はい。入籍は……世間体のために。必要な場では、ご一緒させていただくこと」
言いよどんだ声に、ふっと短い沈黙が生まれる。
「そして……妻としての、つとめを……」
その言葉は、消え入りそうなほど小さかった。
薄灯の中、知代の手がかすかに震えているのを、孝太郎は見ていた。
濡れた髪が襟足に貼りつき、肩の力は抜けないまま、ただ必死に礼を尽くそうとしている姿が、痛いほどに映った。
彼女は、まだ二十になったばかり。自分より、六つも年下の娘なのだ――その事実が、遅れて孝太郎の胸に重く届いた。
「……それは、今すぐである必要はありません」
孝太郎の声は、いつになく低く、静かだった。
知代が、はっと顔を上げる。
「あなたが望まぬうちは、私の側から何かを強いるつもりはありません。これは約束です」
その目に、欲や情の色はなかった。ただ理性と、どこか寂しげな穏やかさが浮かんでいた。
知代は返す言葉を持たず、ただしばし見つめ返した。
「……代わりに、少しだけお話をしませんか。こうして二人きりで向かい合うのは、今夜が初めてですから」
知代は、こくりと頷いた。
畳の上に差す仄明かりのなか、ふたりの影が寄り添うように伸びていた。
「……ひとつ、伝えておきたいことがあります」
静かな間を置いて、孝太郎が口を開いた。正座した膝の上に、指先を重ねるようにしている。
「師範学校の件です」
知代の目が、わずかに見開かれる。
「すでに今春の試験は終わっておりますが……本郷の近くにある桐岡女子高等師範学校――ご存じですか?」
知代は一瞬戸惑ったように視線を泳がせたが、やがて小さく頷いた。
「……はい、名前だけは」
「父の旧知で、私も顔を知っている先生が今も在職されています。その方に相談したところ、来週末、特別に補欠試験を受けさせていただける運びとなりました」
知代は息を呑み、畳に手をついた。
「……そんな、私のために……本当に……ありがとうございます」
言葉がかすれ、頭を深く下げたその背中は、押し殺した思いと混乱で小さく揺れていた。けれど、その姿には確かな決意もまた、滲んでいた。
孝太郎は、それを見ながら、静かに言葉を継いだ。
「私は……派手なことや、気を煩わせるような暮らしは、好みません」
襖の向こうで風が鳴る音がして、二人の間にさらに静寂が濃くなる。
「仕事をして、勉強をして。時折、気の合う友人と杯を交わす――それが、私にとっては理想の暮らしです」
知代は、そっと顔を上げた。孝太郎の眼差しは変わらず穏やかで、語る言葉には飾りがなかった。
「けれど、あなたのことを、決して邪険に扱うつもりはありません。家庭を共にする以上、時折、こうして言葉を交わせたらと願っています。無理にとは言いませんが……」
それが本心か、それとも「妻」という立場にある者への最低限の礼儀か――知代には、まだ判じかねた。
けれど、その声音のなかに何か柔らかいものが含まれていたのも、確かだった。
「普段は帰りが遅くなることもあります。ですから、夕食も風呂も、待たずに済ませてください」
知代は小さく頷く。
「その代わり――もし、あなたが嫌でなければ、寝る前にこうして、少しだけ話をして過ごせたら、私は嬉しい」
畳の上に落ちた影が、ふたりの間に穏やかに重なる。
「……もちろん、抵抗があるようでしたら、布団は今すぐ、あなたの部屋に運びます」
その言葉に、知代はぴたりと瞬きを止めた。
そして――
「……いいえ。……このままで、構いません」
震えるような声だったが、はっきりとした否定だった。
「ありがとうございます」
そう言って、もう一度、深く頭を下げた。
その夜、ふたりは並んだ布団に横になった。言葉は交わさず、背を向け合うでもなく、向き合うでもなく、ただ同じ天井を見上げて。
障子の外では風が葉を揺らす音がかすかに混じった。
新しい生活の夜は、そんな静けさの中に、そっと更けていった。




