十四話
春をはらんだ朝の光が、桐岡女子高等師範学校の門扉をやわらかく照らしていた。
古びた煉瓦の塀に囲まれた学び舎は、白い漆喰の壁に緑の窓枠が映える、静かで端正な建物だった。木の芽はまだ堅く、校庭の隅には冬を越した花壇がぽつぽつと耕され始めている。
制服を着た女生徒たちが、教科書を抱えて講堂から教室へと歩いてゆく。控えめな笑い声や靴音が敷石に反響し、知代の胸に懐かしさが満ちていった。
(――学校の音だ)
その響きに身を包まれたとたん、心の奥がぎゅっと熱を帯びた。
失われたはずの時間に、ほんの少し触れたような気がした。
応接室に通され、木の机に向かって試験を受けるように促される。
筆記は国語、数学、英語の基礎的な設問。答案用紙は端整に折られ、硯と筆、鉛筆、消しゴムが整然と置かれている。
問いは決して奇をてらったものではなかったが、勉学ときちんと向き合った者しか受け入れないという強い信念が反映されたものだった。
続いて簡単な面談が行われた。白髪の校長が、机越しに穏やかに尋ねる。
「これまでのご経験をふまえて、将来どうありたいとお考えですか」
知代は一呼吸置いてから、静かに答えた。
「学ぶということを通して、誰かの役に立てるようになりたいと……そのように考えております」
言葉は揺れていたが、目だけはまっすぐに前を向いていた。
全てが終わると、知代は応接室の隅の椅子に腰を下ろし、待つようにと促された。
特別試験ということで、その場での通知が約束されていたのだ。
時計の針が少しだけ進んだころ、先ほどの校長が再び現れる。
「島田知代さん」
呼びかけに知代が立ち上がると、校長はふっと口元を緩めた。
「非常に、よい出来でした。字も、思考も、整っておりました。合格といたします。春から、しっかり勉強してくださいね」
その一言が、雪解けの陽光のように胸に広がった。
「……はい」
知代は深く、深く頭を下げた。喉の奥が詰まりそうで、声を整えるのに必死だった。
(――夢では、ない)
そう確かめるように、制服の少女たちが歩く校庭をもう一度見つめてから、校門を出た。
帰宅すると、つねがちょうど台所で出汁を取っていた。
「つねさん、私――合格しました」
振り返ったつねの顔が、みるみるほころんだ。
「まあ!やっぱり、そうだと思いましたわ、知代様なら、きっと!」
手にしていた布巾を放り出し、もう一度、両手を合わせるようにして喜びを表した。
「今夜は……もう一品、煮物を増やしましょう。干し椎茸を戻してありますのよ」
知代も、笑みを抑えきれず、小さく口元を綻ばせた。
孝太郎は、今夜は遅くなると朝に言っていた。だから風呂も夕餉も済ませてしまい、知代は静かな二階の部屋で帳面を閉じてから寝室に入った。
布団の上に座っていると、階下で鍵の音がして、まもなく足音が近づく。
襖が開くと、孝太郎が少し疲れた様子ながら、静かな目でこちらを見た。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
着替えを終えた孝太郎が、向かいの布団の上に腰を下ろす。知代はまっすぐに顔を上げた。
「……あの、今日、受験してまいりました」
「はい」
「合格……いたしました」
静かな言葉だった。けれど、押し込めきれない喜びが、その声にそっと滲んでいた。
孝太郎の表情がわずかに緩む。
「おめでとうございます。よかったですね」
その一言は、型通りでありながらも、心の底からの祝意が感じられた。
「これまで……勉強漬けの日々だったでしょう。明日は土曜ですから、私は昼で上がれます。よければ、午後、少し散歩でもしませんか」
「……お散歩、ですか」
「ええ。すぐ近くの帝大……私の母校です。何も特別なことはありませんが、あなたにも見ておいていただきたいと思いました」
思いがけない誘いに、知代は驚いたように瞬きをした。
(――この人は、そういうことも言うのだ)
戸惑いと微かな喜びが、胸の奥で交差した。けれど、顔に出すのがどうにも下手で、知代はただ頷くしかなかった。
「……はい。よろしければ」
その返事に、孝太郎は軽くうなずき、夜具の端を整えた。
静かに消される灯の下、ふたりはいつものように横になった。
午後の陽は、春の翳を残しながら街を包み込んでいた。
孝太郎に導かれて、本郷通りを少し北へ歩くと、赤門がそびえていた。
漆の黒ずんだ扉と、深い庇。江戸の空気を残すその門は、やはり特別な気配を纏っている。
「こちらが、正門です。もっとも、学生の出入りは裏門が多いですが」
知代は門を見上げ、緊張を帯びた息をひとつ、細く吐いた。彼はこの門を、自分より年下の頃にくぐったのだ――そう思うと、急に足元が重たくなるような思いがした。
そのまま、ふたりは構内へと入る。
石畳の道の両側には銀杏並木が並び、まだ裸の枝先には、わずかに芽吹きの気配がある。
講堂は重々しい石造りで、随所に煉瓦の縁が走っている。
広場の隅には腰かける学生の姿も見え、どこからか詩吟の練習が微かに流れていた。
「校舎は、いまも変わっていませんね。……工学部棟、法学部棟、こちらが図書館です」
孝太郎は必要以上に語らず、けれど歩みを止めることなく、静かに構内を案内していた。
その後ろ姿を見つめながら、知代は小さな声で尋ねた。
「……どんな、大学生活でしたか?」
孝太郎は立ち止まり、少し首を傾げたようにして、曇りのない目で空を仰いだ。
「……入学してすぐ、父が亡くなりました」
知代は、はっとして息を止めた。
「……あの、申し訳……」
「いいえ、悪いことではありません。もう随分と、昔のことです」
淡々とした声には、乾いた諦念ではなく、過去を静かに包み込む温かさがあった。
「父は、大蔵省の官吏でした。今の私と同じです。真面目な人でした。情にも厚く、家のこともよく見ていた。ただ……母が、私が十五のときに亡くなってからは、ひたすら仕事にのめり込むようになりました」
石畳の上に、ふたりの影が静かに並んでいた。
「過労が原因でした。倒れてから、ほんの数日で」
知代は言葉を見つけられず、ただ視線を下げた。
「……ですが、苦しいことばかりだったわけではありません」
ふと、孝太郎の口元が、わずかに緩んだ。
「ひとりだけ、特別な友人ができました。早瀬俊哉――私と同じ、一高の出身ですが、仲良くなったのは帝大に入ってからです」
どこか懐かしむような声音に、知代は耳を傾けた。
「彼は、優秀でしたが、努力しているようには見えませんでした。いつも軽口を叩いていて、身なりも気にして、女性にばかり愛想を振りまいていて……」
「……でも、悪い奴ではない。あれは……仮面ですね。誰にでも愛想はいいが、本当の顔はほとんど見せない。ただ、私には変に遠慮なく接してくれました」
言葉を重ねるうち、孝太郎の顔にごく僅かだが、柔らかな色が差してきた。
「引っ込み思案の私にとって、友人と言えるのは、いまも彼くらいです。……実は、私の家の近くに越してきて、今も本郷に家を借りています。職場も一緒で」
その言葉の最後に、孝太郎はふっと笑った。
ほんの少し、肩の力が抜けたような、控えめな笑みだった。
それを見た知代は、驚きにも似た気持ちを抱いた。
(……この方の、こんな顔。初めて見た)
彼の言葉には、誇張も飾りもなかった。ただ、誰かの存在を心から「ありがたい」と感じている様子が、ゆるやかに伝わってきた。
春の光が、枝越しに差し込んでくる。
銀杏の影が石畳に揺れて、どこかで鶯の声が聞こえた。




