第9話 屋敷の下働き
洗い場の格子の下には、昼にも声が落ちてくる。夜のリタの声とは違い、皿や鍋を洗う女中たちの声で、水音に混じって屋敷の中の話がぽつぽつと降ってきた。夜の静けさの中で聞くのとは違って、昼の声は鍋の音や足音に紛れてとぎれとぎれになり、ウロは何度も体の位置をずらして耳を寄せなければならなかった。夏の初めのある昼、洗い桶の底を擦る音の合間に、年配の女中が溜め息まじりに言った。
「見習いの子が里へ帰ってから、もうひと月だよ。手が足りなくて、腰が抜けそうだ」
「家令様に、また頼んでみたらどうです」
「頼んでるさ。けど、なかなか見つからないんだよ」
ウロは格子の下で、その言葉を一つずつ拾った。手が足りない、という言葉の意味は分かる。人が足りないということだ。足りないところへ人が行けば、その人は要る者になる。宿の主人も、最初は何も訊かずにウロを雇った。屋敷の中へ入れば、リタの顔も、リタの一日も、格子越しではなく全部見ることができるはずだった。
翌朝、ウロは旅の娘の形を借りて、屋敷の裏手へ回った。下町の宿で使った形で、顔も声も、もう体が覚えている。表の鉄の門には門番が立っていたが、塀に沿って裏へ回ると、荷を運び入れるための小さな木戸があり、その奥に台所口が開いていた。焼いたパンと煮た豆の匂いが、戸口から夏の朝の空気へ流れ出ている。ウロは息を一つ整えてから、戸口の中へ声をかけた。
「手が足りないと聞いた。働きたい」
出てきたのは、あの年配の女中だった。前掛けで手を拭きながらウロを上から下まで眺め、それから奥へ向かって誰かを呼ぶ。少しして現れたのは、黒い上着を着た痩せた男で、背筋がまっすぐに伸び、白いものの混じった髪をきちんと撫でつけていた。家令、というのがこの男のことらしかった。
「紹介状は」
「ない」
「以前は、どこで働いていた」
「下町の宿。皿を割って、客を怒らせて、やめさせられた」
女中が、手ぬぐいで口元を押さえた。家令は眉をひとつ動かしただけで、しばらく黙ってウロを見ていた。嘘を言えばいいのだということは、ウロにも何となく分かっていた。けれど、どの嘘ならこの男が頷くのかが分からなかったので、本当のことを言うしかなかったのだ。女中が横から、「人手が要るのは本当ですよ、家令様」と小声で言い添えた。
「……正直なのは、悪くない」
家令は短く言い、女中のほうへ目を向けた。
「住み込みの部屋は塞がっているから、通いで、見習いからになる。様子を見て、駄目なら帰ってもらう。いいね」
「いい」
「『はい』だ。それから、名前は」
「ウロ」
女中が「うろ?」と聞き返し、家令までがわずかに口の端を緩めた。変わった名前だね、と女中は笑いを噛み殺しながら言った。広場の老人と同じ言葉だった。ウロは、名前を言うと人間は笑うものらしい、と覚えておくことにした。笑われても、呼ばれないよりはいいような気がした。
◆
台所は、宿の厨房の倍ほどの広さがあった。石の床は毎朝水で流されるらしく、隅のほうまで白っぽく乾いていて、壁には大きさの違う銅の鍋が、小さいものから順に吊るされている。奥には煉瓦を積んだ竈が二つ並び、片方の口では、朝に焼いたパンの残り火がまだ赤く光っていた。洗い場へ続く木の戸は、夜に鼠の形で見上げたときよりも、ずっと低く小さく見えた。
渡されたのは、灰色の綿の服と白い前掛け、それに髪をまとめる布だった。物置の陰で一人になると、ウロは肌の上に浮かべていた麻の服の形を、ゆっくりと平らにならした。数呼吸で布の皺が消え、つるりとした素肌だけになる。その上に本物の服を被ると、綿の目が肩や背中にさらさらと触れて、思っていたよりもくすぐったかった。日が暮れれば下町へ帰ることになるが、帰る先が路地の格子の下だということは、誰にも訊かれなかった。
見習いの仕事は、宿の仕事とよく似ていた。水を運び、床を磨き、銀の食器を布で拭く。違うのは、ここでは何をするにも、まず「かしこまりました」と言うことだった。女中がそう言うのを聞いて、ウロもそうした。何を言われてもそう答えていたら、「お昼は食べたの」と訊かれたときにも「かしこまりました」と言ってしまい、女中に背中を叩かれて笑われた。
一日じゅう同じ形を保っているのは、宿のときと同じように骨が折れた。昼を過ぎるころには指の先が少し痺れ、銀の匙を拭く手つきが鈍くなる。そのたびにウロは物置の陰で息を三つ数え、痺れが引くのを待ってから仕事に戻った。
リタの姿は、昼のあいだに何度も見た。リタはこの屋敷の娘で、二階の日当たりのいい部屋で刺繍をし、決まった時刻に奥様と茶を飲み、午後には客間で手紙を書く。どの姿も、夜の洗い場で泣いていた娘と同じ顔をしていた。ただ、昼の顔は泣いていないぶん、どこかでじっと何かを堪えているようにも見えた。
ウロが見ていて気づいたのは、リタの動作がどれも丁寧で、そして遅いということだった。客間の花瓶に挿す花を家令が三種類持ってきたとき、リタは一つずつ手に取り、香りを嗅ぎ、窓の光にかざしてから、長いあいだ黙っていた。
「ええと……あの、こちらの、白いのを。……です。奥のお部屋は、暗いので」
ようやくそう言うまでに、窓の外の雲が一つ、端から端まで流れていった。家令はその間、花を抱えたまま少しも急かさずに立っていて、答えを聞くと「かしこまりました」とだけ言って下がった。宿の主人なら、二度は「早くしろ」と言っていただろう。
午後の茶の席では、奥様がリタに、次の集まりにどの服を着ていくかを尋ねていた。リタはカップを両手で包んだまま、答えを探して目を伏せる。奥様は急かさずに待っていて、リタが「青い、ほうを」と言うと、柔らかく笑って頷いた。けれど、リタが窓のほうへ目を移したあとで、奥様の笑みがほんの少しだけ下がるのを、茶器を下げに来たウロは見ていた。それが何なのか、ウロにはまだ分からなかった。
ウロが運んだ水を、リタは「ありがとう」と言って受け取った。ウロが受け取る側ではなく、渡す側なのに、礼を言われたのだ。市場のパン屋で、払ったほうが礼を言っていたのと同じだった。ウロは盆を持ったまま首を傾げ、リタも同じように首を傾げて、そのまま二人で少しのあいだ黙っていた。
昼下がりの洗い場で、ウロは年配の女中に訊いてみた。
「なぜ、皆、お嬢様を待つ」
女中は皿を洗う手を止めずに、少し笑った。
「お嬢様はね、ゆっくりなだけさ。待ってりゃ、ちゃんと一番いい答えを出しなさる。小さいころから、ずっとそうだよ」
「外の者も、待つのか」
女中の手が、そこで止まった。泡のついた皿を流しの縁に置いて、女中は足元の格子のあたりを見下ろしたまま、しばらく何も言わなかった。
「……待つ人ばかりじゃ、ないからねえ」
この屋敷の者たちは、リタを笑わない。急かさず、先回りもせず、言葉が出てくるまで待っている。ウロはそれを、昼のあいだずっと見ていた。それなら、リタが泣くのは、この塀の内側のせいではないのだ。
◆
夕方、台所口に馬車の音が止まり、仕立てのいいお仕着せの男が、白い封筒を一通置いていった。封には赤い蝋が押してあり、甘い香水の匂いが、紙からかすかに立ちのぼっている。家令がそれを銀の盆に載せ、ウロは盆を運ぶ役を言いつけられた。
客間で手紙を書いていたリタは、盆の上の封筒を見ると、手にしていたペンをそっと置いた。指先で封蝋の紋を一度なぞり、それからゆっくりと封を切る。中の厚い紙を読み進めるうちに、リタの唇が小さく動いた。
「……ヴェラ様の、お屋敷で。お茶会、ですって」
誰に聞かせるでもない声だった。ウロは盆を胸に抱えたまま、その名前を聞いた。ひと月のあいだに二十一回、格子の上から降ってきた名前だ。リタは手紙を膝の上で揃え直そうとしたが、紙の端がうまく揃わず、何度もやり直していた。紙の擦れ合う乾いた音が、静かな客間にいやに大きく響いた。
その指先が、かすかに震えていた。




