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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
第一章 キメラ編

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第8話 洗い場の少女

 格子の上へ出る道を、ウロは水の流れから探した。声の格子に落ちてくる水は、真上からではなく、水路の壁に開いた細い横穴を伝ってくる。横穴は人の腕ほどの太さしかなく、鼠(ねずみ)の形でなければ通れそうになかった。そこで、まずは水路をもう少し先まで辿(たど)り、表の通りへ出る大きな格子を探すことにした。


 夕方、ウロは鼠になって、通りの格子の隙間から顔を出した。最初に目に入ったのは、高い塀だった。石を隙間なく積んだ塀が通りの両側にどこまでも続き、ところどころに黒い鉄の門がある。門の奥には木々の梢(こずえ)と、灯のともった窓がいくつも見えた。下町の通りとは、匂いからして違っている。磨いた石の匂いと、刈ったばかりの草の匂い、それに、どこかの庭で咲いている花の甘い匂いがした。


 通りの角から、灯を提(さ)げた男が二人、犬を連れて歩いてきた。腰に剣を下げていて、塀の門の前を通るたびに、門番と短い言葉を交わしている。犬が鼻を低くして、まっすぐこちらへ向かってきた。ウロの体に染みついた下水道の匂いを嗅ぎつけたのだ。犬が吠え、男の一人が灯をこちらへ向ける。


「なんだ、鼠か」


 ウロは格子の隙間から水路へ飛び降りた。頭の上で、犬がしばらく吠え続けていた。表の通りは見張られていて、塀の向こうは鉄の門で閉ざされている。この辺りの人間は、自分たちの住む場所を、ずいぶん念入りに囲っているらしかった。


◆


 声の格子の下へ戻ると、ウロは横穴の口に鼻先を入れた。中は湿った苔(こけ)で滑りやすく、石鹸の匂いと、あの細かい粉の匂いが、奥のほうからかすかに漂ってくる。体を細く伸ばして横穴を這い上がっていくと、やがて頭の上に、鉄の格子の影が見えた。格子の棒の間は、鼠の体なら抜けられるほどの幅があった。


 月はまだ低かった。ウロは格子の隙間から這い出し、すぐ脇にあった木の桶(おけ)の陰に身を隠した。桶の板は水を吸って黒ずみ、触れた毛皮がじっとりと湿る。鼠の小さな心臓が、胸の中で速く打っていた。速いのは鼠の心臓がそういうものだからなのか、それとも別の理由なのか、ウロには区別がつかなかった。


 そこは、屋敷の裏手の洗い場だった。石を削った大きな流しがあり、その下の地面に、ウロが通ってきた格子が嵌(は)まっている。壁には洗った布が何枚も干してあり、水を汲むための甕(かめ)が二つ並んでいた。洗い場の奥には、厨房へ続くらしい木の戸があって、その隙間から細い光が漏れている。見上げると、屋敷の壁は三階ぶんほどの高さがあり、並んだ窓の多くはもう暗かった。


 月が洗い場の真上に来るころ、木の戸が開いた。


 出てきたのは、若い娘だった。片手に小さな灯を、もう片方の腕に布をかぶせた鉢を抱えている。娘は灯を壁の棚に置き、鉢を流しの縁に下ろすと、袖をまくって、甕から汲んだ水で手と板を洗い始めた。流れた水が、石鹸の匂いをさせながら格子へ落ちていく。ウロがいつも下で浴びていた、あのぬるい水だった。


 娘は鉢の布を取り、中から白く丸いものを取り出して、洗った板の上に置いた。両手の付け根でそれを押し、折り畳み、また押す。灯の明かりの中で、細かい粉がふわりと舞い上がった。ウロが毎夜、水の中に混じっているのを見つけていた粉は、これだったのだ。鼻に届く匂いは、甘いような少し酸っぱいような、ウロの知らない匂いだった。けれど、市場で嗅いだパン屋の匂いに、どこか似ていた。


 娘の手は、ゆっくりと動いた。押す、畳む、向きを変える。その一つ一つが急がず、乱れず、同じ速さで繰り返されていく。手の付け根が生地を押すたびに、板が石の流しの縁に当たって、ことん、ことんと小さく鳴る。白い塊はそのたびに少しずつ艶(つや)を増し、板の上で丸く、なめらかになっていった。宿の主人が皿を拭く手よりも、市場の屋台の主が串を返す手よりも、ずっと丁寧な手つきに見えた。


 その手の甲に、ぽたりと雫(しずく)が落ちた。


 娘の顔は、灯のほうを向いていなかった。生地を見下ろしたまま、肩が小さく揺れている。結(ゆ)い上げた髪がほつれて頬にかかり、その頬にも、粉が白く付いていた。年の頃は、ウロが借りた旅の娘とそれほど変わらないように見えた。


「……うまく、言えないの」


 声が、上から降ってくるのではなく、すぐそこから聞こえた。格子越しに丸くなることもなく、角のある声がまっすぐ耳に届く。ウロは桶の陰で、身じろぎもせずにそれを聞いた。


「言いたいことは、ちゃんと、あるのに。口に出そうとすると、どこかへ、いっちゃうの」


 娘の手は止まらなかった。泣きながらも、押して、畳んで、向きを変える。手だけが、言葉の代わりに何かを言おうとしているように見えた。


◆


 木の戸が、もう一度開いた。今度出てきたのは、年配の女だった。前掛けをして、手に燭台(しょくだい)を持っている。女は流しの前の娘を見て、短く息を吐いた。


「リタお嬢様。また、こんな時間に」


 娘の肩がびくりと跳ねた。慌てて手の甲で頬を拭ったので、目の下に白い粉の筋がついた。


「あ……ごめんなさい。ええと、あの、もう少しだけ、です」


「子爵(ししゃく)家のお嬢様が、夜中に洗い場で粉まみれだなんて。旦那様と奥様が知ったら、また心配なさいますよ」


 女の声は、叱っているようで、少しも尖っていなかった。娘が言葉を探しているあいだ、女は燭台を持ったまま、黙って待っていた。急かしもせず、先回りして言葉を足すこともない。宿の主人は、ウロの「どのくらい」を一度も待ってはくれなかったな、とウロは思った。


「……明日の朝、焼いていただけますか。あの、焼けたら、みなさんで、食べてください」


「はいはい。かしこまりました。ですから、もうお休みくださいな」


 娘は生地を鉢に戻して布をかぶせ、女に手渡した。それから灯を取り、何度も頭を下げながら戸の向こうへ消えていった。女は鉢を抱えたまま、娘の背中をしばらく見送っていた。


 子爵家、というのが何なのか、ウロは言葉の意味だけを知っていた。人間の中でも、高いところに置かれる家の一つだ。この大きな屋敷と、高い塀と、鉄の門の内側で暮らす人間。声の主は、そういう家の娘だった。名前は、リタというらしい。


◆


 戸が閉まり、洗い場が暗くなってから、ウロは格子をくぐって水路へ戻った。いつもの板の上で形を解くと、横穴を這った腹のあたりが、苔でぬるりと冷えていた。頭の上の格子からは、今夜はもう、水も声も落ちてこない。


 ウロは暗がりで、今見たものを一つずつ並べてみた。大きな屋敷があり、待ってくれる女がいて、丁寧に動く手がある。言葉は遅いが、間違ったことは一つも言っていなかった。焼けたら皆で食べてくれと、女に頼んでさえいた。ウロのように、順番を破って肉を掴んだわけでも、訊かれたことに答えすぎたわけでもない。ウロが群れや宿を追い出された理由を、あの娘は何一つ持っていないように見えた。


 それなのに、あの娘は、どこにも行きたくないと言う。


 ヴェラ様と、カミラ様。ひと月のあいだに何度も数えた名前を、ウロは思い出した。あの娘を笑い、内緒を言いふらす者たちは、きっとあの塀の外の、どこか別の屋敷にいるのだろう。けれどウロは、その者たちの顔も声も知らなかった。洗い場で見たのは、泣いている娘の手と、待っている女の背中だけだ。それだけでは、何が娘を泣かせているのかは、形にならなかった。


 分からなかった。分からないことは、これまでにもたくさんあった。けれど、旅の娘の形を借りるときには、顔も背中も横顔も、全部を見てから化けた。全部を見れば、形は作れたのだ。


 理解できないなら、観察すればいい。ウロは格子の上の暗がりを見上げて、そう決めた。リタという娘が、なぜ除(の)け者にされているのか。それが分かるまで、全部を見る。


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