第7話 毎夜の声
声を聞くようになって、ひと月ほどが過ぎた。格子の下の、水のかからない一角は、もうすっかりウロの場所になっていた。流れてきた板切れを三枚並べて敷き、その上に体を丸めると、石の冷たさが直接背中に来なくなる。格子から差す光が白から橙に変わり、やがて消えて月の色になるまで、ウロはそこで待つ。
上の街の一日は、格子の向こうの音で分かった。朝には荷車の音と、遠くで鳴る鐘があり、昼には人の足音がいくつも重なって、夕方には、どこかの家で鍋を叩く音がする。夜が更けると、それらが一つずつ消えていく。最後に残るのは、いつも水の音だった。足元の黒い流れは昼も夜も変わらず、壁を伝う雫だけが、雨の降った翌日には少しせわしくなった。
昼のあいだ、ウロはときどき水路を歩いた。腹が減れば、目を獣のものに変えて暗がりの鼠を捕まえたし、上から流れてくる野菜の屑や、骨のついた肉の切れ端を拾うこともあった。どれも冷たく、泥の味がしたが、文句を言う相手もいない。食べ終えると、ウロはいつも同じ道を通って、格子の下へ戻った。迷うことはなかった。水路の分かれ道は、もう匂いで覚えていた。
月が格子の真上に来るころ、まず水が落ちてくる。ぬるい水で、石鹸の匂いがする。ときどき、粉のような細かいものが混じっていて、それが何なのかはウロには分からなかった。水が止み、少し間があってから、声が降ってくる。順番は、一度も狂ったことがなかった。
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声は、毎夜違うことを話した。けれど、同じ言葉が何度も出てきた。
「ヴェラ様が、また笑っていらしたの。わたしが、お返事を探しているあいだに」
「カミラ様が、みんなに話してしまって。わたし、あれは、内緒のつもりだったのに」
ヴェラ様と、カミラ様。名前の意味は、ウロにももう分かる。呼ぶための音だ。そのあとに付く「様」という音が、相手を高いところに置くための言葉だということも知っていた。ただ、自分を笑う者や、内緒を言いふらす者を、なぜわざわざ高いところに置いて呼ぶのかは、分からなかった。ゴブリンの群れでは、長老だけが高いところにいた。
ウロは、名前が出てくるたびに数えた。ひと月のあいだに、ヴェラ様は二十一回、カミラ様は十四回。ほかにもいくつか名前が出てきたが、一度か二度きりで、すぐに聞こえなくなった。ヴェラ様の名前が出る夜には、決まって息の詰まる回数が多かった。数えているうちに、ウロはそのことに気がついたが、それが何を意味しているのかまでは、数えても出てこなかった。
声はほかにも、ウロの知らない言葉を落としていった。お茶会、夜会、招待状、社交の場。一つ一つの意味は分かる。茶を飲む集まりで、夜の集まりで、来いと書いた紙で、人と付き合う場所。声の主は、そういう集まりに顔を出さなければならない身分の人間らしかった。行けば笑われると分かっているのに、それでも行くのだという。
「行かなくちゃ、いけないの。お父様とお母様のためにも」
なぜ行かなくてはならないのかを、声は言わなかった。言うまでもないことなのだろう、とウロは思った。言うまでもないことほど、ウロには分からないのだ。
雨の夜もあった。格子の上を叩く雨粒が、水路の天井いっぱいに響いて、足元の流れは見る間に嵩を増していく。板切れが浮き上がりそうになり、ウロは壁の出っ張りに爪を立ててよじ登って、格子のすぐ下に体を貼りつけた。冷たい雨水が背中を打ち続けたが、そうしなければ、雨音に紛れて声が聞き取れなかったのだ。その夜の声は短く、「明日も、雨ならいいのに」とだけ言った。雨なら、どこへも出かけなくて済むからだろうか。ウロは濡れた壁にしがみついたまま、そう考えた。
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ウロは、一度も返事をしなかった。
声が落ちてくる格子は、手を伸ばせば届くほど低いところにある。下から何か言えば、上には聞こえるだろう。けれど、何を言えばいいのかが分からなかった。宿の窓際の男のことを、ウロは覚えていた。何が悪いのかと訊かれたから、答えた。答えたら、男の顔の色が変わった。声もときどき、「わたしの、何がいけないの」と言う。言うたびに、ウロの喉の奥で答えのようなものが組み上がりかけたが、ウロはそれを、そのまま飲み込んだ。
代わりに、声が帰ったあとで、ウロは一人で言ってみることがあった。
「どうして、わたし、うまく返せないの」
喉から出てきたのは、上から降ってきたのと同じ声だった。細くて、ところどころで息が詰まる、角の残った声。一度聞けば、ウロはその声を出せる。息の詰まり方まで、そっくり同じにできた。けれど、同じ声で同じ言葉を言ってみても、その言葉がなぜそういう並び方をしているのかは、少しも分からなかった。声だけが手に入って、中身は格子の上に置き去りのままだった。水路の暗がりに自分の出した声が反響して、それが消えると、ウロはまた黙って丸くなった。
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その夜、水が落ちてこなかった。
月が格子の真上に来ても、石鹸の匂いはしなかった。ウロは板の上で体を起こし、格子を見上げて待った。格子の縁から雫が一つ落ち、二つ落ち、それは石鹸の匂いのしない、ただの夜露だった。月は少しずつ格子の端へ寄っていき、やがて石の縁に隠れた。
ウロは数を数えていた。声の主が来ないあいだに、雫が百七十三回落ちた。格子の上では、どこかの戸が閉まる音も、足音もしなかった。上の街の音がすべて消えて、水の音だけが残り、それでも声は来なかった。ひと月のあいだに一度も狂わなかった順番が、その夜、初めて狂ったのだ。
ウロは壁をよじ登り、格子の鉄の棒に顔を押しつけた。錆の匂いが鼻を刺し、冷えた鉄が頬に食い込む。格子の向こうに見えるのは、夜空の切れ端と、石を敷いた地面の縁だけだった。上で犬が一度だけ吠え、すぐに静かになった。鼻を利かせても、石鹸の匂いも、あの声の主の匂いもしない。そもそも声の主がどんな匂いをしているのかを、ウロは知らなかった。
ウロは、その夜は眠らなかった。眠らなくても困ることはなかったが、目を閉じると、格子の向こうの暗さがいつもより深いような気がした。
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次の夜、水は来た。いつもより遅く、量も少なかった。石鹸の匂いがかすかにして、水が止んでから、いつもより長い間があった。
「……ごめんなさい」
声は、それだけ言った。誰に謝っているのかは分からなかった。昨日来なかったことを、ウロに謝っているのではないということだけは、分かった。声の主は、格子の下に誰かがいることを知らないのだから。
それから声は、長いあいだ何も言わなかった。鼻をすする音も、息の詰まる音もしなかった。ただ、格子の上にまだ人がいる気配だけがあって、ウロはその気配が消えるまで、身じろぎもせずに上を見ていた。やがて、ひどく小さな声が落ちてきた。
「もう、どこにも、行きたくない」
戸の閉まる音がして、気配は消えた。
ウロは格子の下で、しばらく動かなかった。声は、前よりずっと弱くなっていた。言葉の数は少なく、息づかいは、詰まる手前で途切れてしまうほど浅かった。どこにも行きたくない、という言葉の意味は分かる。分からないのは、それを言わせたものが何なのか、ということだった。胸のあたりが、初めて声を聞いた夜と同じように小さく縮んでいて、今度はいつまでも元に戻らなかった。
ウロは、先生のことを思い出した。先生の背中しか見ていなかったから、先生の顔は作れなかった。見ていないものは、作れない。形も、声も、ウロは見て、聞いて、覚えてきたのだ。格子の上の声は、もうひと月も聞いている。けれど、その声の主の顔を、ウロはまだ一度も見ていなかった。
板の上から立ち上がると、ウロは格子の上の、月の消えた暗がりを見上げた。
分からないなら、見ればいい。




