第6話 空気という名の
川沿いの下町の宿は、二階建ての古い建物だった。表の扉の上には、色の褪せた木の看板が斜めにかかり、裏手からは洗い物の水が、石の溝を伝って川のほうへ流れ出ている。ウロが裏口で「下働きを探していると聞いた」と言うと、前掛けをした太った男が出てきて、ウロの頭から足の先までを、値踏みするように眺めた。
「細っこいな。水汲みはできるか」
「できる」
「給金は、働きを見てからだ。それまでは飯と、物置の寝床だけだぞ」
「それでいい」
宿の主人はそれ以上何も訊かず、ウロに前掛けを一枚投げてよこした。前掛けは本物の布で、肌でできた服の上からその紐を結ぶと、腰のあたりが少しくすぐったかった。
寝床だと言われた物置は、裏庭の隅の小屋で、樽や古い椅子の脚のあいだに、藁を詰めた袋が一つ放り込んであった。板壁の隙間から川の匂いが入ってきて、夜になれば、そこから表の食堂の笑い声も聞こえてくるのだろう。屋根があって、誰にも追い払われない場所だった。ウロにはそれで十分だった。
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宿の仕事は、言われたことをすることだった。ただ、言われたとおりにすると、たいてい何かがうまくいかなかった。
最初の仕事は水汲みで、裏庭の井戸から桶で水を汲み上げ、厨房の大甕を満たすまで往復する。濡れた縄が手のひらに食い込み、桶を引き上げるたびに井戸の底から冷たい息のような空気が上がってきた。腕の骨を少し太くすれば楽になると分かっていたが、人前で形を変えるわけにはいかないので、ウロは細い娘の腕のまま、何十回も井戸と厨房を行き来した。甕が満ちるころには、手のひらが赤く擦れて、じんじんと熱を持っていた。
昼の客が帰ったあと、主人に「皿は重ねて運べ」と言われたので、卓の上の皿を全部重ねて運んだ。二十枚ほどの塔は、厨房の入口の段差で傾き、ウロの腕の中から滑り落ちて、半分ほどが床で割れた。主人が額に手を当てて「割るなよ」と言ったので、次からは一枚ずつ運ぶことにした。すると今度は「遅い、日が暮れる」と言われ、「急げ」と言われたので走ったら、また割れた。
割れた皿の欠片を拾い集めながら、ウロは考えた。重ねろと言われて重ね、割るなと言われて一枚ずつにし、急げと言われて急いだ。言われたことは全部やっている。それなのに、言われたことの間にもう一つ、誰も言わない決まりがあるらしかった。どのくらい重ねればいいのか、どのくらい急げばいいのか、その「どのくらい」を、主人は一度も口にしなかった。
厨房の奥の洗い場には、年配の女中が一人いて、黙って皿を洗っていた。割れた皿を持っていくと、女中はちらりとウロを見て、欠片を受け取り、何も言わずに古布で包んだ。指の節が太く、水仕事で赤く荒れた手だった。
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夕方になると、食堂は客でいっぱいになった。ビールの匂いと、煮込みの鍋から立つ湯気と、男たちの笑い声が、低い天井の下にこもっている。ウロは卓を拭いて回りながら、客たちの話し声を聞いていた。それぞれが自分の話をしていて、誰も相手の話を最後まで聞いていないのに、皆が楽しそうなのが不思議だった。
窓際の卓に、一人で飲んでいる男がいた。仕立てのいい上着の袖口が擦り切れていて、杯を空けるたびに、主人を呼んでは何か話しかけている。けれど主人は忙しく、生返事を一つ置いては厨房へ戻ってしまう。男は三杯目を空けたところで、卓を拭きに来たウロの腕をつかんだ。
「なあ、嬢ちゃん。聞いてくれよ」
ウロは手を止めて、男の前に立った。
「女房がな、俺の話をちっとも聞かねえんだ。商売のことを話してやっても、うんざりした顔をしやがる。なあ、俺の何が悪いんだろうな」
訊かれたので、ウロは答えた。
「話が長いからだと思う。いま、同じ話を三回した。一回目と三回目で、奥さんの怒った理由が違っていた」
男の顔から、酔いの赤みとは違う色がさっと引いた。それから、前よりも赤くなった。杯が卓に叩きつけられ、残っていたビールが飛び散って、近くの卓の話し声がぴたりと止む。
「下働きの小娘が、何様のつもりだ!」
主人が厨房から飛んできて、男に何度も頭を下げた。ウロは訳が分からないまま、主人に腕を引かれて厨房の奥へ連れていかれた。
「ああいうときはな、『そうですねえ』って頷いときゃいいんだ。察しろ」
「何が悪いのかと訊かれた。訊かれたから、答えた」
「訊いたって、答えなんか欲しかねえんだよ、ああいう客は」
「では、なぜ訊く」
主人は口を開けかけ、それから閉じて、長く息を吐いた。答えは返ってこなかった。ゴブリンの群れには順番があり、人間の店には、誰も口にしない決まりがあるらしい。けれど、群れの順番は少なくとも目に見えた。こちらの決まりは、目にも見えず、声にもならない。
その夜、ウロは物置の藁袋の上で丸くなり、板壁越しに食堂の物音を聞いていた。あの男はしばらくして帰ったらしく、ほかの客たちの笑い声は、何事もなかったかのように夜更けまで続いた。ウロは暗がりの中で、男の顔の色が変わった瞬間を何度も思い返した。白くなって、それから赤くなった。あれは、言われたことが間違っていたからなのか、それとも正しかったからなのか。どちらなのかが分からないので、次にどうすればいいのかも、分からなかった。
◆
翌朝、まだ客の起き出す前に、主人はウロを裏口へ呼んだ。朝の裏庭には川霧が薄く流れ込んでいて、井戸の縁がしっとりと濡れている。主人の声は、前の晩の慌てた声とは違って、ひどく静かだった。
「お前さんが悪い子じゃないのは、分かる。嘘も言わねえし、手を抜いてるわけでもねえ。けどな、うちは客商売なんだ」
主人はそこで言葉を切り、ウロの顔ではなく、足元の石畳のあたりを見ていた。
「悪いが、今日で終わりにしてくれ」
ウロは前掛けの紐をほどいて、主人に返した。理由は、昨夜の客の話なのだろう。それは分かった。けれど、どう答えればよかったのかは、まだ分からなかった。分からないまま頷くと、主人は何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わずに戸を閉めた。
裏口から通りへ出ようとしたところで、背中に声がかかった。洗い場の女中だった。手ぬぐいで手を拭きながら近づいてきて、前掛けの物入れから、葉にくるんだ包みを取り出す。包みの中には、握り飯が二つ並んでいた。女中はその一つをつまみ上げ、ウロの手のひらに載せた。
「持っていきな。腹、減るだろ」
「なぜ、くれる」
ウロは握り飯と女中の顔を見比べた。
「何も、返せない」
「返さなくていいよ。半分こだ」
女中はそれだけ言うと、残った一つを包み直して、洗い場へ戻っていった。
ウロは、手のひらの上の握り飯を見下ろした。まだ少し温かかった。ゴブリンの巣で、骨を押し返されたことを思い出す。あのときは、分けようとして受け取ってもらえなかった。今度は、分けられる側になったのだ。受け取っていいのかどうか、ウロには分からなかったが、女中はもう振り返らなかった。
一口かじると、塩の味がした。米粒はやわらかく、噛むほどにかすかな甘みが出てくる。握り飯の表面には、女中の手のひらの形がうっすらと残っていた。市場の串のように舌を焼く熱さも、強い匂いもない。それでもウロは、最後の一粒まで、ゆっくりと時間をかけて食べた。
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その夜、ウロは下水道へ戻った。路地の隅の格子の下へ鼠の形で潜り込み、暗い水路の底で、ようやく人の形を解く。三日近く保ち続けた形がほどけると、体の重さが一度に押し寄せてきて、ウロは濡れた石の上にしばらく伏せたまま、水の音を聞いていた。
ここなら、誰にも何も言われない。重ねろとも、急げとも、察しろとも。
ウロは指先に残った米粒を一つ、舌の上に載せた。握り飯の味を、ウロは「分けられた」という言葉と一緒に覚えておくことにした。




