第5話 名乗り
壁の中へ入るには、人間の形が必要だった。川べりから壁沿いに歩いていくと大きな門があり、朝から晩まで荷車と人がそこを出入りしている。門の脇には槍を持った人間が立っていて、通る者の顔をちらりと見ては、顎で先へ促していた。ゴブリンの形のまま近づけば、あの穂先がこちらを向くことくらいは、ウロにも分かった。
人の形を借りるには、まず人をよく見なければならない。ウロは門の近くの茂みに潜み、二日かけて人間を眺めた。けれど顔を見れば背中が見えず、背中を見れば顔が見えないまま、どの人間もウロが見終えるより先に門の向こうへ行ってしまう。先生のときと同じ失敗は、もうしたくなかった。
三日目の朝、川で洗濯をしている娘を見つけた。旅の一家の娘らしく、少し離れた街道の脇に、幌をかけた荷車が停まっている。娘は袖をまくって濡れた布を石に叩きつけ、絞っては広げ、ときどき立ち上がって腰を伸ばしたり、振り返って荷車のほうへ何か叫んだりした。顔も背中も横顔も、髪を結い直す指の動きまで、ウロは全部見た。声も聞いた。「母さん、もうすぐ終わるから」という、少し掠れた高い声だった。
一家の荷車が門をくぐって見えなくなってから、ウロは茂みの陰で形を変えた。骨が伸び、肩が細くなって、指が長くなる。肌の上には麻の服の皺と、まくった袖の形が浮かび上がった。三つ目の息を吐き終えるころには、川面に娘が映っていて、今度は顔もちゃんとある。ただ、服も肌の一部なので、風が吹いても裾が揺れなかった。ウロは少し考えてから、歩くたびに裾の形を小さく揺らしてみることにした。
門は、思っていたよりもあっさりと通れた。荷車の列に混じって歩いていくと、門番は一度だけウロの顔を見て、「次」と言っただけだった。分厚い壁の下をくぐる短いあいだ、日の光が途切れてひやりと涼しくなり、その涼しさは、下水道の空気に少しだけ似ていた。
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市場は、音と匂いでできていた。石畳の広い通りの両側に屋台がひしめき、呼び込みの声と値切る声、荷車の車輪の軋みがひとかたまりになって押し寄せてくる。人の流れは川に似ていたが、川と違って、流れる向きが一つではなかった。ウロは何度も肩をぶつけられ、そのたびに「どこ見てんだ」と言われたので、どこも見ていないと正直に答えると、相手は妙な顔をして行ってしまった。足元の石畳は踏まれすぎて角が丸くなり、ところどころに野菜の屑や、何かの汁の染みがこびりついている。人の汗と土埃と、焼いた脂と熟れすぎた果物の匂いが、狭い通りの上で混ざり合っていた。
いちばん強い匂いは、串焼きの屋台から流れてきていた。炭火の上に拳ほどの肉を刺した串がずらりと並び、脂が落ちるたびに白い煙が立ちのぼる。「焼きたてだよ、魔物の串だ、今朝さばいたばかりだよ」と、屋台の主が煙の向こうで声を張り上げていた。王都では魔物の肉も、家畜の肉と同じように焼かれて売られているらしい。巣で食べた獣の肉の味を思い出して、ウロの腹が鳴った。
並んでいる串の一本を取って、ウロはかじった。熱い脂が舌を焼き、噛むと肉の繊維がほどけて、焦げた香ばしさが鼻へ抜けていく。二口目をかじろうとしたところで、横から手首を掴まれた。
「おい。代金がまだだぞ」
屋台の主は、腕の太い男だった。ウロは掴まれた手首と男の顔を見比べ、それから、さっき隣の屋台で女が言っていた言葉を思い出した。
「もう少し、安くならない」
「……払う気はあるんだな?」
「ない。持っていない」
「じゃあ何で値切った!」
男の声が大きくなり、周りの客がこちらを振り向いた。ウロには、何が男を怒らせたのかが分からなかった。値段の話をしている者は、皆ああ言っていたのだ。男はしばらく顔を赤くしてウロを睨んでいたが、やがて手首を放し、かじりかけの串を顎で示した。
「口をつけたもんは、もう売れねえ。持ってけ。二度と来るなよ」
ウロは串を持ったまま、言われたとおり二度とその屋台には近づかなかった。
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通りの先にはパン屋があった。開け放した窓から甘く温かい匂いがあふれ、店先の台には、丸いのや長いのや、表面に艶のあるパンが並んでいる。店の娘が紙に包んだパンを渡すたびに、受け取った客は硬貨を置き、「ありがとう」と言って去っていく。払ったほうが礼を言う理由が分からず、ウロは少しのあいだ、その店先を眺めていた。
通りを抜けると、石畳の広場に出た。真ん中に一本の古い木が立っていて、太い根が敷石を押し上げ、幹は大人が三人で腕を回しても届かないほど太い。その手前に、大きな板絵が立てかけてあった。外套を着た英雄が灯を高く掲げ、その足元に、黒く大きな影が倒れ伏している絵だった。板の前では老人が一人、子供たちを集めて話をしていた。
「これが灯の英雄さまだ。灯をかかげて魔王を討ち、世の中を闇から救いなすった。だから冬になると、王都じゅうで灯をともすのさ」
「灯の夜って、まだ?」
「まだまだ、冬になってからだ。いい子にして待ってな」
子供たちは歓声を上げて散っていった。ウロは串の残りをかじりながら、板絵の英雄を見上げていた。顔は灯の光で白く塗りつぶされていて、目も鼻も描かれていない。正面のない顔なら、ウロにも作れそうだった。
「嬢ちゃんは、走っていかんのかね」
老人が、木の根に腰を下ろしながら言った。皺の深い顔で、片手に杖を握っている。
「走る理由がない」
「そりゃそうだ。見ない顔だな。名前は何という」
ウロは答えようとして、口を開いたまま止まった。名前、という言葉の意味は分かる。その者を呼ぶための音だ。けれど、ウロを呼んだ者はこれまで一人もいなかった。先生は「お前」と言い、ゴブリンたちは何も言わず、市場の人間は「おい」と言った。どれも、ウロだけを指す音ではない。
ウロは、自分が生まれた場所を思い出した。石を積んだ水路の奥の、光の届かない暗い穴。上の街が流したものがすべて落ちてくる、空っぽの洞。思い出せるものは、それしかなかった。
「ウロ」
「うろ?」
老人は目を丸くし、それから声を立てて笑った。
「変わった名前だ。親御さんも、よくまあ付けたもんだ」
親はいない、と言おうとしたが、老人はまだ笑っていて、その笑いが終わるのを待つうちに言いそびれた。そのとき、頭の上で古木の枝が一度だけ鳴った。ウロは顔を上げたが、葉が数枚揺れているだけで、広場には風もなかった。ウロはすぐに、老人のほうへ目を戻した。
「腹が減っとるなら、川沿いの下町の宿が下働きを探しとったぞ。飯くらいは食わせてくれるだろう」
老人は杖をついて立ち上がり、ウロの肩を軽く叩いて広場を出ていった。叩かれた肩は、少しだけ温かかった。
◆
日が傾くと、広場の人はまばらになった。ウロは古木の根元に座り、一日じゅう同じ形を保っていた体の重さを、背中の幹に預けた。指先が少し痺れていて、形を解けば楽になると分かっていたが、ここで解くわけにはいかなかった。通りの角では、長い竿を持った男が軒先の灯を一つずつともして回っている。灯がともるたびに、石畳の上の影が一つずつ濃くなっていった。
広場を横切っていく人間たちは、互いの名前を呼び合っていた。母親が子供を呼び、店の者が客を呼び、誰かが遠くから誰かを呼んで、呼ばれた者が振り返る。名前は呼ばれるためにあるのだと、ウロは見ていて分かった。呼ばれた者は、どんなに遠くにいても、どんなに人混みの中にいても、必ずその声のほうを向く。まるで、名前に紐でもついているかのようだった。
ウロは、借りた娘の声で、自分の名前を小さく言ってみた。
「ウロ」
振り返る者はいなかった。名前は一つできたが、それを呼ぶ者は、この広い王都のどこにもいなかった。




