第63話 戸口の朝
自分の店の台を、客の側から眺めたことは一度もなかった。夜が明けるまでの長い数刻、バルトは客が順番を待つときに腰掛ける丸椅子に座り、ランプの届くかぎりの、見慣れた店の中を眺めていた。
分隊長のオルドは、子供の眠っている家から、夜中に父親を引き出すことはしなかった。夜が明けたら連れていく、とだけ言い、帳場の椅子に浅く腰を下ろして、ときどき腰をさすっている。表の戸口では若手のネッドが提げ灯を足もとに置いて立ち、カイは、オルドと短く言葉を交わしたあと、来たときと同じ裏口から帰っていった。最後まで、バルトには何も言わなかった。
ジルだけは、休まなかった。ランプを一つ提げて作業場へ入り、冷室へ下りる戸を開けて、石の段を下りていく。バルトは止めなかった。止める言葉も、止める理由も、見当たらなかった。オルドに目で促されて作業場の戸口に立ち、ジルの灯が棚から棚へ移っていくのを、ただ見ていた。
冷室は片づいていた。梁の鉤は高さが揃い、石の床は昨日の朝に流したまま乾いている。ジルは長いあいだ棚の前に立っていたが、やがて作業場へ戻ってきて、隅の棚に並んだ骨粉の袋の前で足を止めた。口を縛った麻の袋を、端から一つずつ指で触れて数えていく。数え終えると、帳場の棚から仕入れ帳を下ろし、ランプの下で頁を繰った。
「袋の数は、帳面の端に書いてあるとおりです」
ジルは、頁から目を上げずに言った。
「でも、この秋に仕入れた枝肉の目方から、骨がどれだけ出て、袋がいくつになるか。カイ先生に教わって、数えてみました。袋のほうが、多いんです。それに、ここ」
ジルの指が、帳面の一行を押さえた。熟成の腸詰を売り物から外した本数が書かれ、理由の欄だけが空いている行だった。
「帳面の端の数は、正しい」
バルトは言った。それは、本当のことだった。ジルは帳面を閉じて胸に抱え、バルトのほうへ向き直った。
「ノナちゃんのことも、もう一度聞いて回りました。市の前の日の夕方から、ノナちゃんを見た人は、一人もいません。市の日のバルトさんなら、町の半分が見ています。でも、その前の晩のことは、誰も知らない。店の戸板の隙間から、作業場の灯が夜更けまで漏れていたのを、向かいのハンナさんだけが見ていました。眠れずに、ずっと窓の外を見ていたそうです」
オルドが帳場の椅子から立ち上がり、腰に手を当てた。
「ゆうべの言葉と合わせれば、調査官どのの裁きには足りる。明日か明後日には、着くはずだ」
ジルは頷き、帳面を布にくるんだ。その指は、ゆうべ台の縁を押さえていたときほどには、もう震えていなかった。
◆
窓の外が白みはじめたころ、階段の上で床板が鳴った。いつもの時刻に帳場へ下りてくる、ミーナの足音だった。
ミーナは階段の途中で足を止め、帳場のオルドと、作業場の戸口のジルと、丸椅子に座った夫とを、順に見た。手には、朝の帳面を開くための筆が一本、握られたままだった。
「……どうしたの。何かの間違いでしょう」
「奥さん、調べがある。ご亭主には、駐在所へ来てもらう。詳しいことは、まだ話せん」
オルドの声は、渋く、短かった。ミーナはオルドではなく、バルトの顔を見ていた。バルトは丸椅子から立ち上がり、前掛けの紐をほどいて、台の端に畳んで置いた。
「店は、今日は休みだ」
それだけを言った。ミーナの唇が何か言いかけて開き、そのまま閉じた。ネッドが腰の縄を外し、少しためらってから、バルトの両の手首に回す。バルトは自分から、手を前へ出してやった。
階段の上で、もう一度、小さな足音がした。寝間着のヨナが段の途中まで下りてきて、母親のスカートの裾を握っている。その後ろから、布の人形を抱えたピアが、眠たそうに目をこすりながら顔を出した。バルトは二人を一度だけ見て、それから戸口のほうへ向き直った。
ネッドが戸板を外すと、朝の冷たい光と一緒に、通りの気配が店の中へ流れこんできた。ゆうべの提げ灯を見た誰かが隣へ言い、その隣がまた誰かへ言ったのだろう。市場通りには、もう人が集まっていた。
向かいの靴直しの戸口に、リオの母のハンナが立っていた。少し離れて、粉で白い前掛けをした粉屋の女房がいる。坂の上の側には、肩掛けを胸の前で握りしめた、ラウの母親の姿もあった。誰も叫ばなかった。誰も、前へは出てこなかった。数えきれない目が、戸口に立ったバルトの顔と、縄の掛かった手とに、ただ黙って注がれていた。
人垣のうしろから、石が一つ飛んできた。バルトの肩の横をかすめて戸板の柱に当たり、乾いた音を立てて石畳に落ちる。ジルがすぐにバルトの前へ出て、両腕を広げた。
「やめてください。調べは、騎士団がします」
石は、それきり飛んでこなかった。人垣の中で、誰かが小さく、腸詰、と口にした。その言葉が届いたあたりから、口もとを手で押さえ、人垣を抜けて坂を下りていく客の背中が見えた。豚の背が切り分けられるのを、毎朝台の前で待っていた背中も、その中に混じっていた。
オルドに肩を押され、バルトは戸口の段を下りた。
◆
「父さん?」
背中のほうで、声がした。店の中からだった。
バルトは足を止めた。振り返れば、そこに九つの息子の顔があることは分かっていた。骨が外れたとき、食卓で父を見上げた目が、今どんな色をしているのかも、おおよそ見当がついた。
「母さんの言うことを聞け」
前を向いたまま、それだけを言った。ヨナの返事は聞こえなかった。ミーナが、ピアの名を低く呼ぶ声がしただけだった。
オルドの手が、もう一度肩を押す。縄の掛かった手首に朝の風が冷たく当たり、右の親指の付け根の古傷が、何年ぶりかでかすかに疼いた。人垣が二つに割れ、その真ん中の石畳を、バルトは坂の下へ歩きだした。いつもは荷車の車輪の音で聞こえない自分の足音が、今朝は、妙にはっきりと耳に届いた。
割れた人垣の目は、カイの背中に貼りついていたときと同じように、バルトの背中から離れなかった。誰の口からも、言葉は出てこなかった。町がこれほど静かだった朝を、バルトは思い出すことができなかった。
最後に見たとき、ヨナの手は母のスカートを掴んでいた。バルトは振り返らなかった。




