第62話 変わったか
嘘にも、目方がある。中身を知らない者にはその重さが分からなくても、日数という秤を持つ者の前に置かれれば、包みの釣り合いはすぐに崩れる。その夜、閉めた店の台の前で、バルトは一つの嘘を量ることになった。
カイの手紙が荷馬車で町を出てから、七日目の夜だった。ジルが何も買わずにミーナの前から帰っていって、二日が過ぎている。バルトは店じまいを終え、通りに面した戸板を一枚だけ残して閂を掛けると、空いた樽を二つ、作業場を抜けて裏庭へ運び出した。裏口の戸は、樽を伏せ終えてから閉める。それが、父の代からの順だった。
胡桃の木の下に樽を並べて店へ戻ると、台の上に、ピアの布の人形が座っていた。昼間の店番ごっこのまま片づけ忘れたらしく、小石を一つ握らされている。とうに閉めた店で、まだ律儀に客を待っているような顔だった。バルトが人形を帳場の棚へ移したとき、残しておいた戸板が、二度叩かれた。
戸板をずらすと、ジルが立っていた。制服のまま、提げ灯も持たず、一人きりだった。右の袖口のほつれは、もう指の幅ではきかないほど長く垂れている。
「夜分に、すみません。少しだけ、お話が」
バルトは頷いて、ジルを中へ入れた。台の上のランプに火を移すと、空になった鉤の列が、天井の近くに細い影を並べた。ジルは台の前の、いつも包みを受け取っていた場所に立った。その目が一度、店の奥へ流れる。作業場へ続く戸口と、その脇の、冷室へ下りる重い戸のほうへ。ジルの右の手は、腿の横で固く握られていた。
「王都から、知らせが届きました」
ジルは、まっすぐにバルトを見て言った。
「カイ先生の師からです。人をよこす前に、骨の見立てだけ、先に手紙で。あの欠片は、魔物の骨ではない、と」
バルトは、ランプの芯を少し下げた。手紙が出たのは、七日前の朝だ。街道を下って王都まで三日、戻りの荷馬車でまた三日。王都の師がそれを読み、骨を見て、返事を書いて荷に託すまでに、残っている日は一日しかない。そのうえ、カイが坂の上でジルの手に押しつけた紙の包みは、五日前にはまだ、この町にあった。ジルの胸の物入れは、今夜も同じ形に、小さく膨らんでいる。
「早いな」
バルトは笑った。台の向こうから、目方を告げるときの声だった。
「手紙が出て、まだ七日だ。王都までは荷馬車で三日、戻りも三日。向こうの先生は、一日で骨を見て、返事を書いたことになる。腸詰なら、まだ皮も乾かない日数だ」
ジルの握った拳が、腿の横で一度だけ白くなった。言い返す言葉を探すように唇が動いたが、何も出てはこなかった。仕掛けられた罠の口は、何も挟まないまま、静かに閉じていった。
◆
ランプの油が、小さく爆ぜた。ジルはしばらく台の木目を見下ろしていたが、やがて握っていた拳をほどき、その掌を台の縁に置いた。
「……嘘です。王都からは、まだ何も届いていません」
「そうか」
「バルトさん」
ジルは顔を上げた。灯の下で、その顔から、少しずつ色が引いていくのが分かった。
「私は、バルトさんの腸詰が好きでした。ずっと、前から。この台の前に立つのが、楽しみで」
そこで、言葉が途切れた。続きを言おうとした唇が開き、何も言わずに閉じる。台の縁に置いた掌が、細かく震えはじめた。ジルはそれを止めようとして指に力をこめたが、震えは指先から肘へと上っていくばかりだった。顔はもう、ランプの灯の色を映すほかに、何の色も残していなかった。
バルトは、その顔から目を離さなかった。
鐘の音も、戸口に並んだ灯も、靴直しの閉じた戸も、これまで見てきたのは、どれも町の水面に立った輪だった。輪は遠くで広がり、遠くで消えていく。けれど今、台一つ隔てた目の前で、一人の客が、自分こそが輪の真ん中に立っていたと知った顔をしている。石を投げた手のすぐ先で、水が震えている。
この顔が、見たかったのだ。バルトは、ゆっくりとそれに気づいた。気づいたときには、口がもう動いていた。
「……それで、食べたあと、お前は何か変わったか」
声は穏やかだった。歯は大丈夫か、と訊いたときと、何ひとつ変わらない声だった。ジルは答えなかった。蒼白な顔のまま目を閉じ、台の縁に置いた掌を、ただ強く押しつけていた。
◆
店の奥で、床板が鳴った。
「今の言葉を、もう一度、言ってください」
ジルが目を開けて言った。その声は、バルト一人に向けられたものではなかった。作業場へ続く戸口の暗がりから、二つの人影がランプの灯の輪の中へ出てくる。腰に手を当てた分隊長のオルドと、その半歩後ろに、白衣の上に薄い上着を羽織った、痩せた男が立っていた。眼鏡に、ランプの火が小さく映っている。
幼なじみのカイだった。駐在所の奥の部屋にいるはずの男が、いつそこから出されたのか、バルトは知らなかった。裏口の戸は、樽を伏せたまま、まだ閉めていない。裏庭の木戸の掛け金が外からでも外せることを、子供のころ毎日のようにそこから出入りしていたカイは、町の誰よりもよく知っていた。
失言だった。バルトは、それを顔の皮一枚の内側で知った。台に置いた手も、吸う息の長さも、変わらなかった。
「もう一度言うまでもないだろう。聞こえたはずだ」
「聞こえた」
オルドが、渋い声で言った。カイは何も言わなかった。坂の上で人垣の端を通り過ぎていったときと同じ、棚の小瓶の札を読むときの目で、バルトの顔と手とを順に辿っていた。
逃げる理由も、手を上げる理由も、バルトには思いつかなかった。黙っていれば、まだいくらでも事実を並べ替えられたはずだ。それでも口が動いたのは、運が悪かったからではない。一つの考えを熟成の列のように頭の隅に吊るしてきて、最後に、手より先に口が欲しがったのが、あの一言だった。
ああ、知りたかったのだな。バルトは自分にそう言い聞かせた。それで、胸の内は静かに片がついた。
オルドが台の脇を抜け、残しておいた戸板に手を掛けた。表で待っていたらしいネッドの声が短く応じ、火打ちの音が二度、三度と続いて、提げ灯に火が入る。
戸が開いた。町の灯が、一つ点いた。




