第61話 家の肉
同じ席に、同じ皿が並んでいた。夏の終わりのあの晩と何ひとつ違わない食卓で、違っていたのは、その上を流れる空気だけだった。
戸板の閂を確かめてから二階へ上がると、台所ではもう鍋が湯気を立てていて、ミーナが木の匙で中身をゆっくりとかき混ぜていた。隣村の農家ヤンの鶏を、根菜と香草で煮込んだ鍋だ。通りに面した窓には、向かいの家々の戸口に出された灯が、小さく映りこんでいる。ラウの夜から、どの家も灯を下げていなかった。
食卓の端では、ヨナが黙って四人分の皿を並べていた。その向かいで、ピアが布の人形を椅子に座らせ、自分は踏み台に乗って、木箱を店の台に見立てている。
「いらっしゃいませ。今日は、いい鶏が入ってますよ」
ピアは人形の手に小石を一つ握らせ、それを自分で受け取った。
「はい、ちょうど五百。おつりは、ありません」
ちょうどなら、おつりはないよ。いつもならそう言うはずのヨナは、皿の縁を指でなぞったまま、何も言わなかった。ピアは兄の顔を見て、少しつまらなそうに踏み台から下りた。
「はい、座って。冷めないうちに」
ミーナが四つの皿に煮込みをよそい、前掛けを外した。その一言で、食卓はいつものように締まった。
バルトは皿から鶏の腿を取り上げ、指先で継ぎ目を探って、軽くひねった。骨はするりと抜け、柔らかく煮えた肉だけが皿に残る。外した骨を皿の縁に置いたとき、ヨナが匙を持ったまま、ぽつりと言った。
「ラウ、まだ帰ってこないの」
「まだよ。町のみんなで探してるわ」
ミーナが、ヨナの皿に鶏を一切れ足してやりながら答えた。ヨナは頷き、足された一切れをじっと見下ろした。カイ先生のことは、訊かなかった。学校で、何か耳に入っていたのかもしれない。
しばらく、匙が皿に当たる音だけが続いた。やがてミーナが、思い出したように顔を上げた。
「そういえば、今日の昼前に、ジルさんが来たのよ。あなたが配達に出ているあいだに」
「腸詰か」
「それが、何も買わなかったの。台の前で、ちょっと妙なことを訊いていったわ」
ミーナは匙を置き、首をかしげた。
「お宅の食卓のお肉は、どこのですかって。だから、ヤンさんの農場の鶏ですよって答えたの。そうしたら、お店のお肉は、一度もですかって」
バルトの指は、二本目の骨を探り当てたところだった。継ぎ目に指の腹を当て、いつもの角度でひねる。骨は、いつもどおりに外れた。
「一度もって言ったわ。所帯を持った最初の晩から、一度も。肉屋が自分の店の肉に飽きたら商売にならないって、あなたの冗談まで教えてあげたのよ。笑ってもらえると思ったのに」
ミーナは、小さく肩をすくめた。
「ジルさん、真っ青になって。お礼もそこそこに、帰っていったの。お腹の具合でも悪かったのかしら。このところ、ろくに眠っていないみたいだったし」
「ジルは、真面目だからな」
バルトは外した骨を皿の縁に並べ、煮汁を一匙すくった。熱い汁が喉を通り、朝から冷えた体の芯へ、ゆっくりと落ちていった。ミーナは、そうね、と頷いて、ピアの口もとを布で拭った。それで、その話は終わった。
◆
子供たちを寝かしつけて戻ってきたミーナは、ランプを食卓の真ん中に寄せ、繕い物の籠を膝に引き寄せた。バルトは窓辺の椅子に腰を下ろし、針が布を渡る小さな音を、背中で聞いていた。
ミーナは、何ひとつ嘘をついていない。訊かれたことに、訊かれた分だけ、正直に答えただけだ。台の前でバルト自身がしてきたのと、まったく同じやり方で。そして、その正直な答えが、今日この町で交わされたどの言葉よりも重く、ジルの胸に落ちていったのだった。
ジルが量りに来たのは、肉屋の家の鍋ではない。週に二度、昼の鐘より少し前に台の前に立ち、包みを受け取ってきた、自分自身の手のほうだ。真っ青になったというその顔が、何を思い浮かべていたのか、バルトにはおおよその見当がついた。
ミーナに言っておくべきことは、いくつか思いついた。ジルにまた何か訊かれても、店のことは自分に回せ。鍋のことは、もう誰にも話すな。けれど、口止めをされた妻は、なぜかと訊くだろう。訊かれれば、そのあとに続く答えは、どれも嘘になる。嘘を一つ食卓に載せれば、この家は、もう日常ではなくなる。
家族は日常だった。日常があるから、日常でないものが測れる。その線は、今夜も少しも動かなかった。動かす気も、起きなかった。
「こんなときでも、あなたは変わらないのね」
ミーナが糸を歯で切り、ランプの灯越しにこちらを見た。責める声ではなかった。帳面の最後の行に線を引くときと同じ、静かな声だった。
「変わりようがないさ」
バルトが答えると、ミーナは小さく笑って、次の繕い物を籠から取り出した。ヨナの上着の肘が、また擦り切れかけていた。
窓の外では、向かいの家々の戸口の灯が、夜通し消されずに並んでいた。坂の下の駐在所の奥の部屋にも、今夜は灯が一つ点いているはずだった。鍋の残り香とランプの油の匂いが、背中のほうから静かに漂ってくる。
家の食卓は、いつも通り温かかった。それが唯一の証拠になると、バルトは初めて思った。




