第60話 診療所の噂
嘘は、誰かが確かめれば剥がれる。けれど本当のことを並べ替えただけの話は、誰がどれだけ確かめても、本当のままそこに残る。バルトがそれを使ったのは、この朝が初めてだった。
カイの手紙が荷馬車で町を出てから、五日が過ぎた朝だった。台に塊肉を並べ終えるころには、いつもの顔ぶれが店先に集まりはじめていた。路地の口に近い家の婆さんは籠を提げ、洗濯屋の女房は濡れた手を前掛けで拭きながら、豚の背が切り分けられるのを待っている。
「うちの亭主ときたら、走狼の串を食べてから、夜中に一人で厠へ行けるようになったんだよ。それまでは、いちいちあたしを起こしてたくせにさ」
女房が言うと、婆さんが歯の抜けた口を開けて笑った。けれどその笑いは長く続かず、二人の目は、どちらからともなく坂の上のほうへ向いた。ラウの家の戸は、今朝も閉じたままだった。
「ラウの坊や、どこで消えたんだろうねえ。お天道さまの高いうちに、通い慣れた坂の途中でさ」
婆さんが呟いた。バルトは豚の背に刃を入れながら、目方を告げるときと同じ声で答えた。
「最後に見たのは、カイだそうだ。診療所の戸口で見送ったと、本人が言っていた」
嘘は一つもなかった。婆さんは、そうだったねえ、と頷いた。バルトは切り分けた肉を紙に寝かせ、少し間を置いてから続けた。
「カイは、気にしていたよ。トマス爺の関節の薬も、まだ棚に置いたままだそうだ。取りに来ないって」
それも、カイの口から聞いたとおりのことだった。言い方は、幼なじみの細やかさを褒めるときのものだった。女房が包みを受け取る手を止め、婆さんの顔を見た。
「トマスの爺さんも、先生のところへ通ってたのかい」
「ああ。朝晩二回だと、来るたびに言われていた」
「ハンナさんが倒れたときも、ずっと付いてたのは先生だったね」
婆さんが、指を折るように言った。バルトは紐を巻きながら、往診していたのはカイだ、とだけ答えた。それも本当のことだった。
「トマスの爺さんに、ハンナさんに、ラウの坊や。先生が診てた人ばかりじゃないか」
「そう言われてみれば、そうだな」
バルトが足したのは、それだけだった。女房は包みを胸に抱え、声を落とした。医者は子供の体のことに詳しいもんね。婆さんが、あの先生は独り者だろう、夜中に何をしてるか誰も知らないよ、と続けた。どちらの言葉にも、バルトは相づちを打たなかった。
二人が帰ったあとも、店先の会話の温度は戻らなかった。次の客も、その次の客も、包みを待つあいだに同じ話をした。誰かが口にした言葉に、別の誰かが一つずつ事実を足していく。骨を見て人のものはないと言ったのも、先生だった。誰が言い出したのかは、もう誰にも分からなかった。
◆
昼前、バルトは配達の荷車を引いて坂の下へ下り、酒場と街道沿いの宿に塩漬けを届けた。戻ってきたのは、日が西へ傾きはじめたころだった。市場通りの坂の上に、人だかりができていた。
診療所の前だった。軒の薬草の束の下に、町の者たちが二重三重に集まっている。誰も石を持ってはいなかった。松明もなかった。手にしているのは言葉だけで、その言葉が低く、絶え間なく、戸口のほうへ押し寄せていた。バルトは荷車を坂の途中に止め、人だかりの端に立った。
戸口の前には、ジルが両腕を広げて立っていた。その横で、分隊長のオルドが腰に手を当て、若手のネッドが心細そうに鍵束を握っている。
「証拠が、何もありません。先生は、子供たちを診てきただけです」
ジルの声は張り詰めていたが、群れの低いざわめきは引かなかった。市の翌朝、広場でバルトが同じ言葉を口にしたとき、男たちの手は一つずつ離れていった。今日は、誰の足も下がらない。言葉の重さは、言葉そのものではなく、誰の口から出たかで量られるのだった。
「先生を、駐在所で預かる」
オルドが、渋い声で言った。
「疑ってのことではない。このままでは、先生の身が危ない。牢には、まだ行商人の二人がいる。先生には、奥の部屋に入ってもらう」
「分隊長、それは」
ジルが振り返ったとき、診療所の戸が内側から開いた。カイだった。白衣の上に薄い上着を羽織り、往診の鞄を提げている。眼鏡を指で押し上げ、集まった顔をひととおり見渡してから、ジルに向かって短く言った。
「いい。俺は行く」
ざわめきが、そこで一度だけ途切れた。カイはジルの前まで歩み寄り、上着の物入れから、小さな紙の包みと、折り畳んだ紙の束を取り出した。それをジルの手に押しつける。
「ジル。あれを、持っておけ」
ジルは包みと紙の束を握ったまま、カイの顔を見た。何か言いかけた唇が、結局そのまま閉じられた。ジルは包みを制服の胸の物入れにしまい、紙の束をその上から押さえるように、掌を当てた。
◆
カイはオルドとネッドに挟まれて、坂を下りはじめた。人だかりが二つに割れ、その真ん中の道を、痩せた背中がゆっくりと進んでいく。手を伸ばす者はいなかった。罵る声もなかった。ただ、割れた人垣の目という目が、白衣の背中に貼りついて離れなかった。
人だかりの端に差しかかったところで、カイの足が一度だけ遅くなった。眼鏡の奥の目が、バルトのほうへ向く。今日は硝子に何も映りこんでおらず、その目の色が、はっきりと見えた。
責める色は、なかった。問いかける色も、なかった。川べりの土手で、泣きながら小鳥に土をかぶせていた子供の目とも違う。棚の小瓶の札を一枚ずつ読み上げていくときの、医者の目だった。その目が、バルトの顔を、手を、もう一度顔を、確かめるように順に辿った。
バルトは目を逸らさなかった。逸らす理由が、どこにもなかった。カイは何も言わずに前を向き、オルドに肩を押されるようにして、坂の下へ遠ざかっていった。
人だかりは、カイの背中が角を曲がるまで動かず、それから少しずつほどけていった。ジルだけが、診療所の戸口の前に残っていた。胸の物入れに掌を当てたまま、閉じられた戸を見ている。その横顔は、一度もバルトのほうを向かなかった。
バルトは荷車の柄を握り、坂を下りはじめた。車輪の音を聞きながら、指を折らずに数を数える。手紙が町を出てから、五日が過ぎた。残りの日数は、腸詰の乾きを読むときと同じくらい、はっきりしていた。
調査官が来るのは、あと五日。




