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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
精肉屋編

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第59話 買わなくなった客

 客の心が変わったとき、それは言葉より先に、注文に出る。十年あまり台の前に立ってきたバルトは、そのことを、肉の目方と同じくらいよく知っていた。


 週が明けた朝、バルトはいつものように鉤(かぎ)から腸詰(ちょうづめ)を二本外し、台の端に分けて置いた。週の初めと半ばの二度、昼の鐘より少し前に坂を上ってくる客のための二本だ。何年も続けてきたことで、手は考えるより先にそうしていた。帳場のミーナも、筆の穂先を指で整えながら、あの足音を待つ顔をしている。


 足音は、いつもの刻限にやってきた。石畳を踏む間合いも、店の前で止まる位置も、何ひとつ変わらない。台の前に立ったジルは、制服の右の袖口のほつれを指先でつまみ、それからバルトに笑いかけた。


「今日は、塩漬けだけでお願いします。いつもの厚さで」


 帳場のミーナが、腸詰を二本、と書きかけた筆を止めた。


「あら。腸詰は、いいの?」


「分隊長に、腸詰ばかり食べるなと言われまして」


 ジルが真面目な顔で言うと、ミーナは筆を持ったまま肩を揺らした。市の日に焼き台の前で聞いたのと、一字も違わない言い訳だった。


 バルトは塩漬けの塊を台に載せ、包丁を当てた。ジルの好む厚さは、刃を入れる前から手が覚えている。切り分けた一枚を紙に寝かせているあいだ、ジルの目は台の上ではなく、店の奥へ流れていた。作業場へ続く戸口と、その先の、灯の届かない暗がりのほうへ。目が合いそうになると、ジルはすぐに台へ視線を戻し、また笑った。笑い方はいつもと同じなのに、口の端だけが、糊で固めたように動かなかった。


「歯は、どうだった」


「カイ先生が、何ともないと。ご心配をおかけしました」


 ジルは包みを受け取り、代を台に置いた。いつもなら、何か変わったことはありませんか、と続くところだった。今日はそれがなく、ジルは軽く頭を下げただけで、坂を下りていった。敬礼の真似は、しなかった。


 台の端には、朝に分けた二本の腸詰が、紙の上に揃えて置かれたまま残っていた。


「ジルさん、どこか具合でも悪いのかしら。顔色が、あまりよくなかったわ」


 ミーナが、筆を置いて言った。


「眠れていないんだろう。ラウのことがある」


 そう答えて、バルトは二本の腸詰を鉤へ戻した。紙に移った脂の跡だけが、台の上にうっすらと残った。


◆


 昼過ぎ、バルトは塩漬けの包みを荷車に積み、坂の上の家々への配達に出た。秋の日差しは石畳の上で薄く、荷車の柄を握る指先に、もう夏の温みは残っていない。どの家の戸口でも、受け取る者の顔は低く沈んでいた。ラウの家の前だけは、戸が閉じたまま、誰も出てこなかった。


 坂を上りきる少し手前で、軒に薬草の束を下げた診療所の前を通りかかった。通りに面した窓の板戸が、半分ほど開いている。その奥の机に、二つの人影が向き合っていた。


 背中を丸めて座っているのはカイで、その向かいに、制服の肩が見えた。ジルだった。机の上には紙が一枚広げられ、カイの指がその上の何かを押さえている。ジルは腕を組み、うつむいたまま動かない。窓の板戸越しには、どちらの声も聞こえてこなかった。軒の薬草の束が風に揺れ、乾いた音を立てるばかりだった。


 バルトは立ち止まらなかった。荷車の車輪は、坂を上るときのいつもの速さで、石畳を鳴らし続けた。窓の前を通り過ぎるあいだ、目を向けたのは一度だけで、それも、隣の家の戸口を確かめるついでのような、ほんの短い間だった。


 客と医者が、窓のある部屋で、紙を挟んで黙っている。それだけのことを、バルトは頭の中の帳面の、いちばん新しい行に書き留めた。


◆


 その夜、家の者が寝静まるのを待って、バルトは作業場へ下りた。灯を一つ入れ、梁(はり)に並んだ熟成の列を見上げる。乾きの揃った腸詰が、灯の明かりの中で、同じ長さの影を床に落としていた。


 バルトは踏み台に上がり、列の端から腸詰を下ろしていった。トマス爺が来なくなった金曜より後に詰めた分は、一本残らず。店先の鉤に戻しておいた二本も、昼のうちにこちらへ下げてあった。鉤から外すたびに、指の腹で皮の張りを確かめた。どれも、いい出来だった。乾きの具合も、色も、あと数日で台に出すのにちょうどよかった。出来のいいものを売り物から外すのは、店を継いでから初めてのことだった。


 外した分は、夜が明けるまでに、作業場のどこにも残らないようにした。空いた鉤は、高さを揃え直しておいた。明日の朝、ミーナが塩を取りに下りてきても、梁の列が短くなったことにしか気づかないだろう。気づいたとしても、秋の仕込みの数を減らしたのだと思うはずだった。


 それから帳場の棚から仕入れ帳を下ろし、ランプの下で開いた。外した本数を、その日の行に書き入れる。理由の欄は、空けたままにした。書けば嘘になる言葉しか、そこには入らなかったからだ。数字を一つずつ確かめ、前の頁と釣り合うように整えていくと、帳面はやがて、いつもの静かな顔に戻った。


 次の仕入れは、しばらく見送る。帳面を閉じながら、バルトはそう決めた。綱の上で足を止めるのは、落ちるためではない。風が凪(な)ぐのを待つためだ。


 灯の芯を下げると、短くなった列の影が、石の床の上で途切れた。昼間、台の端に残された二本の腸詰のことを、バルトは思い返していた。一人の客が、いつもの品を買わずに帰った。ただそれだけのことだった。


 客が一人、買わなくなった。肉屋にとって、それは、町の全員が買わなくなる前触れと同じ重さだった。


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