第58話 欠片
小骨が歯に当たったと客に言われれば、肉屋は詫びて一本取り替える。どこの町の肉屋でも、年に何度かは頭を下げることだ。バルトも、そうやって頭を下げるだけのことだと思っていた。
ラウが戻らなくなってから、四日が過ぎていた。捜索の組は昼も夜も坂を上り下りしていたが、ラウの持っていた薬の包み一つ、見つかってはいない。店先に並ぶ客の声は前よりも低く、子供の手を引いたまま包みを受け取っていく母親が増えた。台の上の鉤には、秋に仕込んだ熟成の腸詰が、三週間の乾きを経た色で並んでいる。
昼の鐘より少し前、週の半ばのいつもの刻限に、ジルの足音が坂を上ってきた。制服の右の袖口は、ほつれた糸が指の幅ほども垂れ、目の下には眠らない夜の色が溜まっている。それでも台の前で足を止めると、ジルは少し照れくさそうに笑った。
「昨日の朝、バルトさんの腸詰で、歯を欠くところでした」
ジルは制服の物入れから畳んだハンカチを出し、台の上で開いて見せた。
「パンに載せて、いつものように齧ったら、奥歯に何か当たって。ネッドには、腸詰に負ける歯だと笑われました」
ハンカチの真ん中に、爪の先ほどの白い欠片が一つ載っていた。骨だった。
バルトには、一目で分かった。毎朝、桶の底で見ている角猪の小骨でも、ロウの持ちこむ魔物のどの骨でもない。分かったことは、顔の皮一枚の内側で止まった。台に置いた手も、吸う息の長さも、何ひとつ変わらなかった。
「すまない。魔物の小骨は、筋に混ざることがある」
口にしたのは、それだけだった。魔物の小骨が筋に混ざるのは、本当のことだ。ただ、この欠片がそうだとは、一言も言っていない。
「今日の二本は、代はいらない。歯は、大丈夫か」
「いいんです、そんなの。歯も、欠けてはいないみたいですから」
ジルは笑って首を振り、ハンカチの四隅を丁寧に折り畳んだ。
「ただ、ちょうど奥歯が少し疼くので、カイ先生に診てもらおうと思って。ついでに、これも見せてきます。何が当たったのか分からないと、どうも落ち着かなくて」
取り返す言葉は、頭の中にいくつか浮かんだ。どれも、肉屋が口にするには一言多かった。小骨の始末を客から取り上げようとする肉屋は、どこの町にもいない。バルトは頷き、いつもの二本を鉤から外して包んだ。ジルは代を台に置き、ハンカチの包みを胸の物入れにしまって、敬礼の真似をして坂を下りていった。
◆
日が傾きかけたころ、坂の上から幼なじみのカイが下りてきた。往診の帰りなのか、白衣の上に薄い上着を羽織り、鞄を提げている。カイが店の台の前で足を止めるのは、珍しいことだった。診療所の主は、肉を買いに来るより、肉屋を呼びつけるほうが多い。
「一本くれ。腸詰だ」
「お前が、腸詰を」
「たまにはな。ただ、歯が悪くてね。すぐには食べない」
カイは眼鏡を指で押し上げ、鉤に並んだ列を端から眺めた。帳場のミーナが、あら、と筆を止める。バルトは一本を外し、皮の張りを指の腹で確かめてから、厚手の紙に寝かせた。端を折って巻き、両端をひねって、麻紐を一巻きする。カイの目は列から離れ、包む手もとへ下りてきて、紐の端が揃うまで動かなかった。
「お前の腸詰は、町一番だ。骨の処理も、丁寧で」
「客に言われると、照れるな」
「昼に、ジルの奥歯を診た」
カイは代を台に置き、包みを受け取った。そのまま帰るでもなく、包みを両手で持ったまま、少しのあいだ通りの向かいの、半分だけ開いた靴直しの戸を眺めていた。
「近ごろ、昔の鳥のことをよく思い出すよ」
「また、その話か」
「ああ。またその話だ」
カイは小さく笑った。それから、天気の話でもするような声で続けた。
「王都の、昔の師に手紙を書こうと思う。骨の見立てに明るい人でな、王都で調べ事があると、役所に呼ばれることもある。見てもらいたいものがあると書けば、たぶん、人をよこす」
「手間だな。魔物の骨は、地方じゃ珍しい形のものもある。王都の先生には、見慣れないかもしれない」
「だから、見てもらうんだ」
二人とも、笑っていた。カイは眼鏡の奥の目を細め、バルトは台の上の包み紙の束を揃えた。明日の朝、街道を下る荷馬車に手紙を託す。カイはそう言い足して、包みを薬の袋と同じ手つきで鞄にしまい、坂を上っていった。
「カイさんが腸詰を買っていくなんて、初めてじゃないかしら」
ミーナが帳面に一行書き足しながら言った。バルトは、ああ、とだけ答えた。食べもしない腸詰を買っていく客は、カイが初めてだった。
◆
その夜、家の者が寝静まってから、バルトは作業場へ下りた。灯を一つだけ入れ、梁に並んだ熟成の列の下に立つ。乾いた皮と塩と香草の匂いが、冷えた空気の中に静かに溜まっていた。
ジルのハンカチの上の欠片を、バルトは思い返していた。鉢の底を指の腹で浚い、残らず拾ったはずの欠片だった。すり抜けたところで、客の目には魔物の小骨と見分けがつかない。仕込みの晩に、自分でそう決めた。客の目には、確かに見分けがつかなかった。ジルは笑って、それを医者のところへ持っていった。見分けのつく目を持つ者のところへ。
手紙は、明日の朝に荷馬車で出る。街道を下って王都に着くまで、三日。師が手紙を読み、役所の誰かが腰を上げるまでに、三日か四日。人が街道を上ってこの町に着くまで、また三日。指を折るまでもなかった。十日ほどだ。
バルトは梁の列の一本に手を伸ばし、皮の張りを確かめた。腸詰を台に出すまでの三週間を、毎年こうして数えてきた。詰めた晩から乾きの具合を指で読み、あと何日で売り物になるかを決めるのは、いつも自分だった。誰かの手紙のために日数を数えさせられるのは、これが初めてだった。
胸に掌を当ててみる。心臓は、規則正しく打っているだけだった。ただ、カイをこのまま十日放っておくわけにはいかない、という考えだけが、秤の針のように、一つの目盛りの上で止まっていた。
手紙の往復に要る日数を、バルトは肉の熟成と同じ手つきで数えた。




