第57話 ラウの友だち
町から子供が一人消えるたびに、その不在は少しずつ坂を上り、この家へ近づいてきていた。今夜、それはヨナの皿の前まで来て、止まった。
ノナがいなくなってから、十日ほどが過ぎていた。捜索の組は今も顔ぶれを替えて広場と川べりへ出ていたが、見つかったものは何ひとつない。町の親たちは朝夕に子供を学校まで送り迎えするようになり、ミーナも、ヨナの手を引いて坂を下りるのを毎朝の仕事に加えていた。店じまいを終えて二階へ上がると、食卓ではもう、隣村の農家ヤンの鶏を根菜と香草で煮込んだ、いつもの鍋が湯気を立てていた。
ピアは布の人形を自分の隣の椅子に座らせ、その額に、水で湿らせた端切れを一枚載せていた。
「この子、おねつなの。あした、カイ先生のところへ連れていくの」
「先生は、人形は診ないと思うよ」
ヨナが言うと、ピアは少し考えてから、じゃあお薬だけもらう、と口を尖らせた。
ミーナが四つの皿に煮込みをよそい、前掛けを外して、はい、座って、と言う。その一言で食卓はいつものように締まったが、ヨナの匙だけが、皿の縁に掛かったまま動かなかった。湯気は顔の前を何度も上っては消えていくのに、ヨナの目はそれを追ってもいない。
「ヨナ、冷めるわよ」
「……ラウが、昼から戻ってこなかったんだ」
ヨナは皿を見たまま言った。昼休みに、ラウはいつものように、カイの診療所へ喘息の薬をもらいに出たのだという。ノナのことがあってから、先生は一緒に行こうかと言ったが、ラウは、慣れた道だから、と笑って一人で駆けていった。午後の授業が始まっても、ラウの席は空いたままだった。先生は、具合が悪くなって家へ帰ったのだろう、と皆に言ったらしい。
「明日、ラウの家に、様子を見に行ってもいい?」
「具合が悪いなら、押しかけたら、お母さんが困るわよ」
ミーナはそう言いながら、匙を置いて窓の外へ目をやった。通りの向こうの戸口には、ノナの夜から今夜まで、灯が一つずつ出されたままになっている。
「風邪かもな。季節の変わり目だ」
バルトは鶏の腿から骨を外しながら、軽く言った。ヨナはしばらく父の手もとを見ていたが、やがて小さく頷いて、ようやく匙を口へ運んだ。
◆
鍋の底が見えはじめたころ、下の店の戸板が叩かれた。客の叩き方ではなかった。二度、三度と、間を置かずに続く音だった。
バルトはランプを取って階段を下り、戸板の閂を外して一枚だけずらした。夜気と一緒に、提げ灯の明かりが店の中へ差しこんでくる。戸口に立っていたのは、市場通りを上った先の家に住む、ラウの母親だった。羽織った肩掛けが半分ずり落ち、灯の取っ手を両手で握りしめている。その後ろに、往診の鞄を提げた幼なじみのカイが、もう一つ灯を持って立っていた。
「夜分に、すみません。ラウは、こちらにお邪魔していませんか。ヨナくんのところに」
「来ていない。ヨナは、ラウが昼から学校に戻らなかったと言っていた」
母親の喉が、一度だけ大きく動いた。学校で、先生から帰ったと聞いた。けれど家には戻っていない。それで学校へ引き返し、診療所へ回り、ヨナの家ならと思って坂を下りてきたのだという。母親はそれを、一つ数えるたびに息を継ぐようにして並べていった。
「昼過ぎに、うちで薬を渡した。いつもの包みを、三つだ」
カイが、母親の肩越しに言った。眼鏡に灯が映りこんで、目の色はよく見えない。
「戸口まで出て、見送った。坂をどっちへ行ったかは、見ていない。すぐに次の患者が来たんだ」
カイの声は平らだったが、いつもより一段低かった。白衣の袖口から、乾いた薬草の匂いが夜気に流れてくる。母親は、あの子、走るなって言われてるのに、いつも走るんです、と誰にともなく呟いた。
戸を叩く音を聞きつけて、通りのあちこちの戸口から顔が出はじめていた。洗濯屋の女房が前掛けで手を拭きながら駆け寄り、その後ろから、亭主と、粉屋と同じ並びに住む男が下りてくる。事情を聞くなり、男が吐き捨てるように言った。
「行商人の仲間が、まだ街道のどこかにいるんだ」
「その二人なら、十日も前から、駐在所の牢の中だよ」
洗濯屋の女房が言い、それきり、誰も口を開かなかった。格子の内側にいる者に、昼過ぎの坂道は歩けない。それなら、と言いかけた言葉を、集まった誰もが、喉の奥で止めているようだった。
広場のほうで、鐘が鳴りはじめた。松明の夜と市の日に続いて、三度目の鐘だった。母親はカイに肩を支えられて坂を下りていき、男たちは灯を取りに、それぞれの戸口へ散っていった。
最後にラウを見たのは、カイの診療所の戸口だった。誰が言い出したわけでもないその一行は、今夜ここに集まった者たちの頭に、同じ形で残ったはずだ。バルトも、それを覚えておいた。
◆
荷車を出す前に二階へ上がると、ヨナは階段のいちばん上に座りこんでいた。下の話は、残らず聞こえていたらしい。ミーナが奥の部屋の戸口から、困ったようにこちらを見ている。バルトはヨナを抱き上げて寝台へ運び、その縁に腰を下ろした。隣の寝台では、ピアが人形を抱いたまま眠っていて、人形の額には、まだ湿った端切れが載っていた。
ヨナは父の胸に顔を押しつけて、声を殺して泣いた。リオも、ノナも、まだ見つかっていないのに。途切れ途切れにそう言うたびに、細い肩が腕の中で跳ねた。シャツの胸に涙が染みて、そこだけが、肌に貼りつくように温かい。
「大丈夫だ。町じゅうで探してる。父さんも、これから行く」
背中をゆっくりさすりながら、バルトは言った。胸もとに染みていく涙の温かさを、バルトは、この町に立った輪の一つとして数えていた。
泣き声が少しずつ細くなり、しゃくり上げる間が長くなっていく。やがてヨナは顔を上げないまま、父のシャツの胸を小さな手で握った。
「父さんは、いなくならないよね」
「ああ。いなくならない」
ヨナの指から、少しずつ力が抜けていった。バルトは息子を寝台に横たえ、上掛けを肩まで引き上げてやった。寝息が整うまで、その手を握ったまま待った。
ヨナだけは、日常の側に置いておく。バルトはその線を、もう一度確かめた。




