第56話 疑われた旅の者
松明を握る手は、夜が明けても、何かを握っていたがる。ノナを探して夜通し広場と川べりを行き来した男たちの手には、朝になっても、燃え尽きた松明の棒が握られたままだった。
鐘が鳴った晩から一夜が明けた広場には、市の名残がまだ散らばっていた。片づけそびれた幟の竿が倒れ、踏みつけられた串の紙が、石畳の溝に貼りついている。そのあいだに、眠らなかった男たちが三人、五人と固まって立ち、低い声で何かを言い合っていた。バルトは裏口から荷車を引き出し、夜通し運んだ水樽の残りを広場の隅で空けていた。
男たちの声は、昨日の昼までとは違う形をしていた。獣は退治された。ロウが七頭、荷車に積んで運んできたのを、皆がこの目で見た。それなら、ノナを連れていったのは何だ。誰かがそう言い、誰も答えなかった。答えの代わりに、男たちの目が、少しずつ広場の外の街道のほうへ向いていくのを、バルトは水樽の陰から見ていた。
そこへ、街道の側から、荷車の車輪の音が近づいてきた。轅を肩から下ろしたのは、日に焼けた年嵩の男と、ひょろりと背の高い若い男だった。月に一度街道を回ってくる行商人の、ガノとペトだ。二人は荷台の布をめくって、広場の店へ卸す荷を確かめはじめ、それから、自分たちを見ている目の多さに、ようやく気づいた。
「あいつら、王都から来たんだろう」
誰かが言った。
「前に来たとき、妙な話をしていったのを覚えてるぞ。王都の下水道には、化け物がいるとか何とか」
「市の前の日にも、街道で見たって奴がいる」
最後の一言を誰が言ったのか、バルトには分からなかった。言った本人も、分かっていないのかもしれなかった。言葉は輪の中を一巡りするうちに、確かめられた話の顔をしはじめる。男たちが一人、また一人と荷車のほうへ歩み寄り、ガノの腕をつかんだのは、粉屋の家と同じ並びに住む男だった。
「待ってくれ、何の話だ」
ガノの声は、怒号にかき消された。ペトの肩にも別の手が掛かり、荷台の箱が傾いて、小間物の小箱が石畳の上に散らばる。押し合う男たちの足が、それを踏みつけていった。
「おれの噂は、王都の下水道の話だけだ! 化け物の背丈だって、ガノの話より小さかったはずだ!」
ペトが叫び、輪の端の誰かが引きつった笑いを漏らしたが、それもすぐに怒鳴り声に飲まれた。駐在所へ連れていけ、と誰かが言うと、男たちは二人を引きずるようにして、広場を横切りはじめた。
その前に、ジルが割って入った。昨夜から一度も脱いでいない制服の袖口は、白くほつれて糸が垂れている。両腕を広げて男たちの前に立ち、ジルは声を張り上げた。
「手を離してください! 話は、駐在所で私が聞きます!」
男たちの足は止まったが、手は離れなかった。ジルの声は、松明の夜のときと同じように、終わりのほうで上ずっていた。
◆
バルトは空になった水樽を荷車に戻し、柄から手を離した。前掛けで一度指を拭い、それから、輪のほうへ歩いていく。急ぎはしなかった。台の前へ客が並ぶときと同じ速さで、人垣のあいだを抜けた。
男たちの何人かが、足音に振り返った。肉屋さん、と誰かが言う。灯と水を出した肉屋、茨の窪みで骨を見つけた肉屋だった。その顔に気づいた者から順に、肩の力が、ほんの少しだけ抜けていくのが分かった。
「証拠が、何もない」
バルトは、ガノの腕をつかんでいる男に向かって言った。大きな声ではなかった。台の向こうから目方を告げるときと、同じ声だった。
「この二人が来るのは月に一度だ。市の前の日にどこにいたかは、街道の宿に訊けばすぐに分かる。手荒に扱って、もし違っていたら、ノナを探す手が二本ずつ減るだけだ」
男たちは顔を見合わせた。バルトは続けた。
「牢に入れて、調べを待て。ジルが聞く。それで足りる」
ガノの腕から、手が離れた。ペトの肩からも、一つ、また一つと手が外れていく。誰かが、肉屋さんがそう言うなら、と呟き、その言葉が輪の中を一巡りした。さっきの「街道で見た」と同じ速さで、同じ道筋をたどって。
バルトはその様子を、秤の皿が釣り合っていくのを待つときの目で見ていた。言葉一つで、町は動く。それは、トマス爺のときに知った。けれど今朝のように、怒りに傾いた皿を、言葉一つで水平へ戻せるとは、まだ確かめたことがなかった。皿は、思ったとおりの速さで戻っていった。
ジルが振り返り、バルトの顔を見た。目の縁が赤く、唇が乾いてひび割れている。
「……ありがとうございます。バルトさん、荷改めに立ち会ってもらえますか。この二人と話したことがあるのは、町では、バルトさんくらいなので」
「ああ」
◆
駐在所の机の上に、ガノとペトの荷が一つずつ並べられていった。布の反物、糸巻き、縫い針の包み、櫛、小さな鏡。分隊長のオルドは椅子に浅く腰掛け、腰をさすりながら、それを黙って眺めている。ネッドは戸口に立ち、外から覗きこもうとする顔を、両腕を広げて押し返していた。
ジルは荷を一つ手に取るたびに、角張った字で調書に書きつけていった。ガノはそのあいだ口を挟まず、ただ、石畳で踏まれた小箱を見るたびに、顔をしかめた。ペトは一度、それは売り物だ、と言いかけて、ガノに肘で突かれて黙った。
荷台の箱の底から、小さな布袋が一つ出てきた。ジルが口の紐をほどき、中身を机の上に滑らせる。細い銀の腕輪が一つ、乾いた音を立てて転がった。古いものらしく、表の細工は擦り減って黒ずみ、窓から差す光を鈍く跳ね返している。
バルトの目が、そこで一瞬だけ留まった。なぜ留まったのかは、自分でも分からなかった。肉の目方なら、手に取らずとも分かる。だが、あの細い輪の重さは、見ただけでは量れない気がした。
ジルは腕輪をつまみ上げ、裏表を返してから、布袋に戻した。調書の一行が、また一つ増える。銀の腕輪、一。それだけだった。
「荷は、全部ここで預かります。二人には、調べが済むまで牢に入ってもらいます」
ジルが言うと、ガノは長い息を吐いて頷いた。オルドが壁の鍵束を外してネッドに渡し、ネッドがそれを、少し震える手で受け取る。奥の壁際の、鉄の格子をはめた牢の戸が開けられ、二人はその中へ入っていった。格子の向こうで、ペトが小さく、王都の話なんか、しなきゃよかった、と言った。誰も、それには答えなかった。
駐在所の戸口を出ると、広場にはまだ人が残っていた。さっき二人を引きずっていた男たちも、輪の外で見ていた女たちも、皆、戸口のほうを向いている。ジルがあとから出てきて、バルトの隣に立った。
「バルトさんがいなかったら、どうなっていたか分かりません。これからも、何かあったら、相談させてください」
ジルがバルトの肩を叩いた。疲れきった手のひらの重みが、前掛けの紐の上に一度だけ乗って、離れていく。広場に残った顔という顔が、その手の行き先を追っていた。
町の全員が自分を見ていることを、バルトは感じていた。




