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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
精肉屋編

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第55話 市の日

 人の多い日ほど、人は互いの顔を見ていない。秋の市の朝、広場を埋めていく人の波を屋台の内側から眺めながら、バルトはそのことを、肉の目方と同じくらい確かなものとして知っていた。


 秋の市は、年に一度、刈り入れが済んだあとの晴れた日に、広場いっぱいに屋台を並べて開かれる。近在の村からも荷車が上ってきて、町の人の数がその日だけ倍に膨れるのだという。森の獣が討たれてから一週間ほどが過ぎ、町の者たちは、その市を待ちかねていたように朝から坂を下っていった。広場の四隅には色とりどりの幟(のぼり)が立ち、風を受けては、乾いた音を立ててはためいている。


 市の前の晩は、作業場の灯が夜更けまで消えなかった。


 バルト肉店の屋台は、毎年、広場の東の端の、駐在所の斜め向かいに出る。炭を熾(おこ)した長い焼き台の上で、ロウから引き取った走狼(そうろう)と、角猪(つのいのしし)の肉を刺した串が、脂を落として煙を上げていた。ミーナは屋台の脇に小さな卓を据えて帳面を開き、ヨナは炭の入った籠(かご)を運び、ピアは焼き上がった串を並べる皿の番をしている。ピアは皿の前で両手を腰に当て、通りかかる大人の一人ひとりに、いらっしゃい、と言っていた。店先の木箱の前で、ノナと何度もくり返してきた言い方だった。


 広場の反対側、西の端には、粉屋の屋台が出ていた。粉袋を積み上げた台の向こうで、粉屋の親父と、ノナの兄にあたる少年が、朝から客をさばいている。ピアは串の皿をヨナに押しつけると、人垣のあいだを縫って西の端まで走っていき、しばらくして、唇を尖らせて戻ってきた。


「ノナちゃん、いなかった。お兄ちゃんが、母さんとおうちで寝てるって」


「粉屋さんの奥さんは、ゆうべ夜通し粉を挽いてたのよ。市の前は、いつもそうなの。お昼には来るわ」


 ミーナがそう言うと、ピアは、じゃあお昼に串を一本とっておく、と言って、皿の端に一本を寄せた。バルトは焼き台の串を返しながら、それを横目で見ていた。


◆


 昼が近づくと、広場は人の波で埋まった。焼き台の前には切れ目なく客が並び、バルトは串を返し、塩を振り、紙に包んで渡す手を、一度も止めなかった。帳場の卓では、ミーナが硬貨を数える手を止めずに、次の客の名を呼んでいる。


 客の口から出るのは、どれも森の話だった。走狼の串を受け取るたびに、これがあの群れか、と包みを掲げて見せる者がいる。獣は退治された、もう子供を外で遊ばせても大丈夫だ、と言い合う声が、焼き台の煙と一緒に広場の上を流れていった。誰の声にも、晴れた日の市らしい浮かれた響きが戻っていた。


 昼の鐘が鳴ってしばらくしたころ、見慣れない色の上着を着た客が、焼き台の前に立った。制服を脱いだジルだった。腰には剣もなく、袖口のほつれた制服の代わりに、洗いざらしの麻の上着を羽織っている。


「今日は非番なんです。串を、二本ください」


「腸詰(ちょうづめ)じゃなくていいのか」


「非番の日くらい、腸詰以外のものを食べろと、分隊長に言われまして」


 ジルは真面目な顔でそう言い、帳場のミーナが筆を持ったまま肩を揺らした。バルトは焼き上がった串を二本、紙に包んで渡した。ジルは包みを受け取ると、屋台の脇に立ったまま、広場の人の波を眺めた。


「去年の市は、迷子の子を三人、親のところへ送り届けて終わりました。今年も、そのくらいで済んでほしいです」


「済むさ。獣は、もういない」


 ジルは小さく頷き、また来ます、と言って人の波の中へ戻っていった。


 日が西へ傾くまで、バルトは一度も焼き台の前を離れなかった。炭を足しに来たヨナが、父さん、昼も食べてないよ、と言い、ミーナが包んだパンを差し出したときにも、串を返す手を止めずに、立ったままそれをかじった。焼き台の前を通り過ぎていった顔の数は、もう数えようがない。今日一日、肉屋がどこに立っていたのかを、この広場にいた者の半分は知っている。


◆


 夕方、幟の影が広場を斜めに横切るころ、屋台は一つずつ店じまいを始めた。バルトが焼き台の炭を灰に埋めていると、広場の西の端から、粉屋の親父が人をかき分けて歩いてきた。前掛けは粉で白く、顔だけが、妙に赤い。


「肉屋さん。ノナは、こっちに来てないか。ピアちゃんのところに」


 その声に、皿の片づけをしていたピアが顔を上げた。


「ノナちゃん、帰ったの? お昼に串、とっておいたのに」


 粉屋の親父の顔から、すっと赤みが引いた。親父は振り返り、追いかけてきた息子の肩をつかむ。母さんと家にいたんじゃないのか、と問う親父の声に、少年は首を振った。朝、家を出るとき、母さんの寝床の隣に寝てると思った。父さんの荷車に乗ったんだと思った。言葉が、順番を失って口からこぼれていく。


 ほどなく、家から下りてきた粉屋の女房が、人垣の向こうに姿を見せた。ゆうべ夜通し粉を挽いて、昼過ぎまで眠っていたのだという。あの子は、あんたたちと朝から市に出てたんじゃないの。女房の問いに、親父は答えられなかった。


「朝、荷車のそばで、あの子の帽子を見た気がしたんだ」


 親父はそう言ったが、言いながら、自分の言葉を信じきれずにいる顔だった。人の多い朝だった。粉袋を下ろしているあいだ、荷車の陰に小さな帽子が一つ見えた気がした。それが本当にノナのものだったのか、誰も確かめてはいなかった。


 集まってきた人々のあいだで、言葉が同じ形に固まっていくのに、たいした時はかからなかった。市の人混みで、はぐれたんだ。今日の昼のうちに、どこかへ。前の日の夕方からノナを見た者がいるかどうかを、問う者は一人もいなかった。


 人垣を割って、ジルが駆けてきた。麻の上着のまま、手には、もう帳面を握っている。ジルは粉屋の三人から話を聞き、広場の屋台に残っている者たちへ、子供を見なかったかと声を張り上げた。非番の顔は、どこにもなかった。


 ピアは皿を抱えたまま、取っておいた串の一本を見下ろしていた。ミーナがその肩を抱き寄せ、大丈夫、きっとすぐ見つかるから、と耳もとで言う。ピアは何も言わずに、母の前掛けに顔を押しつけた。ヨナは炭の籠を下ろし、父の顔を見上げた。バルトはその頭に一度だけ手を置き、母さんと先に帰っていなさい、と言った。


 広場の上の空は、もう赤から藍へ移りかけていた。駐在所の脇の鐘が、ゆっくりと打ち鳴らされはじめる。松明の夜と同じ、昼を告げるのと同じ鐘が、間を置かずに、広場の端から端までを震わせた。


 鐘が二度目に鳴った。魔物は退治されたはずだった。


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