第53話 酒場の目撃者
町じゅうが同じ言葉を信じているとき、ひとりだけ違うことを言う者の声は、たいてい酔っ払いの戯言として扱われる。その戯言がいちばん正しいことを知っているのは、この町でバルトひとりだった。
森の入口に杭が立ってから四日目の晩、バルトは坂の下の酒場の隅で、杯を一つ前に置いていた。捜索で組を率いた酒場の主人が、灯と水を出してくれた礼にと、閉店後の肉屋を呼び止めたのだ。断る理由はなかった。炉の煙は低い天井に溜まり、灯の明かりを鈍く曇らせている。卓のあちこちで杯の底が板を打ち、その合間に、森の話がひそひそと交わされていた。
「走狼ってのは、夜目が利くんだろう。うちの裏の鶏小屋も、板を一枚足しておかなきゃな」
「お前んとこの鶏は、走狼だって素通りするさ。あれだけ痩せてりゃな」
荷運びの男たちが笑い、主人も樽の陰で肩を揺らした。杭が立ってからの町は、こういう冗談を口にできるくらいには、息を吹き返している。森へ入らずに済むと決まったことが、そのまま胸の重しを一つ下ろしたようだった。
笑いが引いたところで、奥の卓から、杯を叩きつける音がした。
「あの骨は、おかしい」
ベン爺だった。猟師だったころのものらしい古い外套を椅子の背に掛け、赤い顔で卓に身を乗り出している。声は酒に濁っていたが、言葉の一つひとつは、妙にはっきりと立っていた。
「今朝、杭の脇から入って、あの窪みを見てきた。三十年、森を見てきたがな、あんな場所に骨を落とす獣はいねえ。走狼は獲物を巣へ引く。森の縁の、茨の中で食い散らかす馬鹿はいねえんだ」
「杭の先へ入ったのかよ、爺さん」
「それだけじゃねえ。窪みの土には、獣の足跡が一つもなかった。あるのは人の靴ばかりだ」
荷運びの一人が、そりゃあ見つけたときに皆で下りたからだろう、と笑った。別の男は、ベン爺の言ったとおり走狼だったじゃねえか、何が不満なんだ、と肩をすくめる。主人は苦笑いして、爺さん、今夜はそのへんにしておけ、と水の入った杯を置いた。誰も本気で聞いてはいなかった。町の者にとって、ベン爺の森の話は、酒場の煙と同じくらい見慣れたものなのだ。
バルトは隅の卓で、その声を最後まで聞いていた。窪みに下りた靴は、ジルとネッドと、組の男たちのものだ。けれど、その下にもう一つ、夜明け前に下りた靴の跡があることを、知っているのはバルトだけだった。ベン爺の言い分は、何ひとつ外れていなかった。
◆
ベン爺は水の杯には手をつけず、外套をつかんで立ち上がった。わしの目が耄碌したと思うなら、それでいい。吐き捨てるようにそう言って、少し揺れる足取りで戸口を出ていく。戸が閉まると、卓の男たちは顔を見合わせ、また低い声で冗談の続きを始めた。
バルトは残りの酒を、ゆっくりと口に含んだ。この卓の誰ひとり、ベン爺の話を本気にしていない。放っておいても、あの言葉は今夜のうちに酒場の煙に紛れ、明日には笑い話として残るだけかもしれない。そう考えて、ほんの少しのあいだ、杯の底を見ていた。
けれど、酔いの醒めたベン爺が、同じことをジルの前で言う朝は来る。あの騎士団員は、町の小さなずれを見落とさない。そうなる前に、口を閉じてもらうほうがいい。考えは秤の針のように一度だけ揺れて、それから静かに止まった。
杯を空け、主人に礼を言って勘定を置いた。主人は、肉屋さんの灯がなかったら、と言いかけて、照れくさそうに首を振った。戸を出ると、夜の坂には今夜も、ところどころの戸口に灯が出ていた。町外れのほうへ下っていく道の先に、揺れる人影が一つ見えた。
追いつくのに、たいした時間はかからなかった。ベン爺は足音に振り返り、相手がバルトだと分かると、鼻を鳴らした。
「何だ、肉屋。お前も笑いに来たか」
「いえ。さっきの話、もう少し聞かせてもらえませんか。窪みの土のこと」
ベン爺は目をすがめてバルトの顔を見上げ、それから、ふん、と息を吐いた。酒の匂いが、夜気の中に白くほどけた。
「肉屋は、骨のことなら分かる顔をしてるな。あの骨を見つけたのは、お前だったか」
「ええ。角猪だと、ジルには言いました」
「角猪なのは、そのとおりだ。おかしいのは、置き場所だ」
置き場所、とバルトは繰り返した。ベン爺は満足そうに頷き、歩きながら話しはじめた。走狼がどこで寝て、どこで食い、どの沢で水を飲むのか。足跡の深さで、何を咥えて歩いていたかまで分かること。話は酒場で聞いたものより長く、ところどころで同じところへ戻ったが、バルトは一度も口を挟まなかった。最後まで聞くのは、台の前でも、夜の道でも同じだった。
町外れの、森へ向かう道の手前に、ベン爺の家はあった。板壁は古く、軒には乾いた獣皮の切れ端が、いつのものとも知れずぶら下がっている。ベン爺は戸に手を掛け、振り返った。
「上がってけ、肉屋。続きは中でだ。わしの話を最後まで聞く奴は、トマスがいなくなってから、お前くらいのもんだ」
「では、少しだけ」
バルトは頷いて、敷居をまたいだ。背中で、古い戸の閉まる音がした。
◆
翌朝も、バルトはいつもの刻限に目を覚ました。作業場に灯を入れ、桶に水を汲んで床を流し、腸詰の鉢に布をかぶせる。夜のうちに、必要なことはすべて済んでいた。手はいつもどおりに動き、指先は汲みたての水の冷たさだけを、正直に伝えてきた。
昼の鐘のあと、バルトは荷車に塩漬けの包みを積んで、坂の下の酒場へ下りた。裏口に包みを下ろしていると、表のほうから人の声が聞こえてくる。回ってみると、戸口の前に主人と、隣の家の女房と、帳面を手にしたジルが立っていた。
「ベン爺の家の戸が、朝から開いたままなんだそうです。中には誰もいなくて、壁に掛けてあった古い外套もないと」
ジルがバルトに気づいて、そう言った。声は落ち着いていたが、帳面を持つ指先が、袖口のほつれをしきりに弄っている。主人は前掛けで手を拭きながら、困ったように首を振った。
「昨日は、先に出て行ったよ。骨がおかしいって、ひとりで息巻いてな。わしの目が耄碌したと思うならそれでいい、なんて言って」
「バルトさんも、昨夜は酒場に」
「ああ。礼の一杯をもらって、ベン爺より少しあとに出た。坂の途中で追いついて、窪みの話を聞いた」
ジルは頷き、その言葉をそのまま帳面に書きつけた。先に出たベン爺、そのあとに肉屋、窪みの話。どれも、主人の話と食い違うところはなかった。隣の女房が、口に手を当てて声を落とした。
「まさか、酔った勢いで、骨を確かめに森へ入ったんじゃないだろうね。杭の先へ入ったって、自分で言ってたんだろう」
その一言で、戸口に集まった者たちの顔が、同じ方角へ向いた。森の入口の杭と、その先の暗い木立のほうへ。主人が低く唸り、ジルは帳面を閉じて、唇を固く結んだ。
「冒険者が着いたら、すぐに森へ入ってもらいます。ベン爺のことも、伝えておきます」
ジルはそう言って、坂を駆け上がっていった。バルトは空になった荷車の柄を握り、酒場の戸口に残った人々の声を、背中で聞いた。あの爺さん、獣の縄張りだって、自分で言ってたのにな。言った本人が、いちばん先にやられちまうなんてよ。
骨がおかしいと言ったベン爺の言葉は、誰の口からも出てこなかった。代わりに残ったのは、森の獣の話だけだった。
魔物説は、二人目の不在で「確かなもの」になった。




