第52話 骨の置き場所
探しても見つからないものが続くと、人は探す場所より先に、探す相手を取り替えはじめる。森の縁で夜を明かした男たちの口から「獣」という言葉がこぼれたとき、バルトはそれを、客が台の前で肉を選び直すときの目つきと同じものだと見ていた。
松明の夜から二度目の朝、空にまだ星の残る刻限に、バルトは裏口から荷車を引き出した。荷台には昨日までと同じく、水を満たした樽を二つと、灯の油の壺を積んである。捜索の組が森の縁へ出るたびに水を運ぶのは、もう誰に頼まれなくても、肉屋の役目ということになっていた。カイから預かった葉の包みは、ゆうべのうちに向かいの戸口で、ハンナの亭主の手に渡してある。
水樽の陰には、口を縛った麻袋が一つ寝かせてあった。中身は、骨粉にする前に作業場の棚で乾かしておいた角猪の骨が幾本かと、紙にくるんだ灰色の毛のひと房だった。毛は先月、冒険者のロウが持ち込んだ走狼の首の付け根に、剥ぎ残されていたものだ。珍しい獣の毛を、なんとなく捨てられずに、作業場の引き出しの奥へしまっておいた。それが今朝、使い道を見つけたというだけのことだった。
畑の脇の道には霜こそ降りていなかったが、轍の溝に溜まった夜露が、車輪に踏まれるたびに細く跳ねた。吐く息は白く、荷車の柄を握る指の節が、冷えて少しずつ硬くなっていく。森の縁に着いても、まだ誰の灯も見えなかった。昼の組に備えて町の者たちが眠っているあいだ、森の縁は、松明の夜に踏み荒らされたまま放っておかれていた。
バルトは荷車を道の端に寄せ、麻袋を肩に担いで、あの夜の列が通らなかった側へ足を向けた。ジルが男たちを並べたのは、畑から森へまっすぐ入る広い縁だった。そこから少し外れた窪みには茨が低く絡んでいて、誰の松明も近づかなかった。窪みの縁で一度立ち止まり、畑のほうを振り返る。町の屋根はまだ黒い影のままで、どの窓にも灯は動いていなかった。
窪みの底へ下り、袋の中身を木の根のあいだに置く。それだけのことに、数呼吸もかからなかった。空になった袋を畳んで懐へ入れ、窪みを上がると、膝に湿った土が少しついていた。バルトはそれを掌で払い、荷車のほうへ戻りかけた。
そのとき、頭の上で乾いた音がした。窪みのそばに一本だけ、ほかの木より幹の太い古木が立っていて、その枝が一度だけ鳴ったのだった。見上げると、枝先の葉が数枚揺れていたが、頬に触れる風はどこにもなかった。
「風はないな」
バルトはそれだけ呟いて、荷車の柄を握り直した。畑の上を霧が這いはじめ、森の縁の木立を、端からゆっくりと隠していった。
◆
日がのぼりきるころ、ジルの率いる組が森の縁に着いた。昨日より人数は減り、男たちの顔には二晩分の疲れが、灰をかぶったように残っている。ジルは帳面を開き、松明の夜と同じように男たちを横一列に並ばせた。今朝は列の外側をもう少し広く取ります、とジルが言い、バルトは荷車を引いたまま、その外側の端についた。
列は木立の手前を、ゆっくりと進んでいった。リオを呼ぶ声は夜よりも短く、間遠になっている。バルトは柄杓で水を汲んで男たちに配りながら、列の端の足もとを見て歩いた。茨の絡んだ窪みの前まで来たところで、足を止める。
「ジル。あれは何だ」
声は大きくしなかった。それでも近くの男が二人、松明の燃えさしを手にしたまま振り返った。ジルが列を止めて駆けてきて、駐在所の若手のネッドがそのあとに続く。バルトは窪みの縁に膝をつき、茨の向こうを指さした。
木の根のあいだに、白っぽいものが散らばっていた。日に晒されたような乾いた色の骨で、どれも肉はおろか、筋の一本も残っていない。茨の枝には灰色の毛がひと房引っかかり、朝の湿りを吸って、先のほうだけが重たく垂れていた。根もとの苔は、何かに掻かれたように、いくつもの筋になって剥がれている。
ジルは息を呑み、帳面を握ったまま窪みを覗きこんだ。ネッドは一歩下がりかけ、ジルの背中に気づいて、慌ててその一歩を取り戻した。
「……人の、ですか」
ジルの声は低く、喉に何かが引っかかったように掠れていた。
「いや」
バルトは窪みに下り、骨には触れずに、上から見下ろした。毎朝、桶の底で見ている形だった。
「角猪だ。脚の骨と、肋が何本か。乾き具合からすると、きのうきょうのものじゃない」
「毛のほうは」
「走狼だろう。先月、ロウが一頭持ち込んできた。首の付け根に、これと同じ色の毛が残っていた」
口にしたことは、一つ残らず本当だった。ジルは帳面を開き、角猪、走狼、と一字ずつ確かめるように書きつけていく。書き終えると、窪みの奥の、茨の向こうの暗い木立へ目をやった。ネッドも同じほうを見て、唾を飲み込む音を立てた。
「走狼は、群れで動くんでしたね」
「ロウはそう言っていた。持ち込まれた一頭は、群れをはぐれて下りてきたやつだそうだ」
ジルは頷き、近くの男に組の者を集めるよう言いつけた。集まってきた男たちは窪みを囲み、骨と毛を代わる代わる覗きこんでは、低い声を漏らした。走狼だとよ。ベン爺の言ったとおりだ。誰かがそう言うと、その言葉は、松明の夜が明けた朝と同じように、口から口へ渡っていった。
◆
骨は麻布に包まれ、昼過ぎには駐在所の机の上に並べられていた。分隊長のオルドは椅子に浅く腰掛け、腰に手を当てたまま身を乗り出して、一本ずつを長いあいだ眺めた。戸口の脇につながれた茶色の犬が鼻を鳴らして首を伸ばすと、ネッドがその前に立ちふさがった。
「それは調べものだ。お前の昼飯じゃない」
真顔で言い聞かせるネッドに、犬は尾を一度だけ振ってみせた。
机のそばには、ジルに呼ばれた幼なじみのカイが立っていた。町医者として、骨の中に人のものが混じっていないかを見てほしい、というのがジルの頼みだった。カイは眼鏡を指で押し上げ、骨を一本ずつ手に取っては、窓から差す光にかざしていく。バルトは見つけた者として、戸口に近い壁際から、その手もとを見ていた。
「人のものは、ない。全部、獣の骨だ」
カイがそう言うと、ジルの肩から力が抜けていくのが分かった。オルドも長く息を吐き、腰をさする。けれどカイは骨を机に戻したあとも、その上から手をどけなかった。
「ただ、血の跡がない。骨にも、包んできた布にも、一滴もない。見つかった場所の土は、どうだった」
「土も、乾いていました」
ジルは帳面をめくって答え、少し考えてから続けた。
「でも、魔物は獲物を、骨ごと運んでいくものなんでしょう。あそこに残っていたのは、前に食べたものの残りで……リオは、もっと奥へ」
ジルはそこで言葉を切った。続きを口にする者はいなかった。カイはジルの顔を見て何か言いかけ、それから黙って骨の上から手を離した。眼鏡の奥の目が一度だけ、壁際のバルトのほうへ動いた。
バルトは目を逸らさなかった。オルドに、肉屋はどう見る、と訊かれたので、窪みで話したことをそのまま繰り返す。角猪の骨で、新しくはない。毛は先月ロウが持ち込んだ走狼と同じ色だ。それより先のことは、肉屋には分からない。どの言葉にも、足したものはなかった。
オルドは深く頷き、ジルのほうへ顔を向けた。
「森のことは、森の者に任せるしかないな」
「はい。街道沿いの町の冒険者ギルドへ、討伐の依頼を出します。今日のうちに、ネッドを馬で走らせます」
ネッドが背筋を伸ばし、それから少し心細そうに戸口の犬を振り返った。カイはそれ以上何も言わず、往診の鞄を提げて駐在所を出ていく。戸口ですれ違ったとき、白衣の袖から乾いた薬草の匂いが、かすかに流れてきた。
◆
ネッドが街道から戻って三日目の朝、森の入口に杭が一本打たれた。杭の頭には、墨で印を書いた細い白布が結ばれている。依頼を受けた冒険者が来るまで森へ入るな、という知らせでもあり、町の者たちは、その日から捜索の組を森の縁へ出さなくなった。
水を運ぶ用のなくなった荷車は、裏庭に寄せたまま乾いていった。店先には朝からいつもの客が戻り、包みを受け取りながら、誰もが一度は森の話をしていく。洗濯屋の女房は豚の背を待つあいだに、人間じゃなかったんだねえ、と胸に手を当てて息を吐いた。それを悲しみと呼ぶには軽すぎ、安堵と呼ぶには、少しだけ重かった。向かいの靴直しの戸は、今日も半分だけ開いていた。
昼の鐘より少し前に、ジルが坂を上ってきた。足音は、もう石畳を蹴っていない。制服の右の袖口は、松明の夜に広がったほつれを、そのままにしていた。
「街道の宿に、見慣れない者が通らなかったか訊いて回るのは、今日でやめにしました。人手は、森の見張りに回せと、分隊長が」
ジルはそう言って、少しだけ笑った。疲れの抜けきらない笑い方だったが、松明の夜のように声が上ずることはなかった。
「バルトさんが見つけてくれなかったら、私たちは今も、見当違いの方角を探していました」
「たまたま、目についただけだ」
バルトは台の上の包み紙を揃えながら答えた。ジルは敬礼の真似をして坂を下りていき、その背中は、もう街道のほうへは曲がらなかった。
骨は見つかった。だが、それを見つけた町の誰も、町の外から来た者の足跡を探さなくなった。




