第51話 カイの目
幼なじみのカイは、昔から、人の顔より先に手を見る男だった。そのことをバルトが思い出したのは、向かいの靴直しの家の、薄暗い奥の部屋でのことだった。
松明の夜が明けたその日も、捜索は昼から組を替えて続けられた。店の常連の騎士団員であるジルは、ろくに眠らないまま、また森の縁の組を率いて出ていったという。駐在所の分隊長のオルドは、腰をさすりながら広場の椅子で知らせを待ち続けているらしい。けれど夕方に坂を上ってくる顔は、どれも黙って首を横に振っていた。森の獣かもしれない、という言葉は、半日のうちに、町の者どうしの挨拶のようになっている。
向かいの子のリオの母親、ハンナが倒れたという話は、昼前には市場通りの端まで届いていた。二晩ほとんど眠らないまま、明け方に台所で膝を折ったのだという。亭主は森の縁から戻ったその足で、また昼の組に加わって出ていったきりだった。
閉店の刻限より少し早く戸板を立てると、バルトは二階の台所へ上がった。妻のミーナが竈の脇に吊るしてあった鶏を下ろし、厚手の紙に包んでいく。隣村の農家ヤンから買う、家の食卓のための鶏だった。所帯を持ってから、店の肉は家の鍋に一度も入れたことがない。病人の枕元へ届ける鍋も、バルトには家の側のものに思えた。
「煮込むなら、根菜も入れてあげて。何も喉を通らないときでも、汁なら入るから」
ミーナはそう言って、包みの上に蕪を二つのせた。二人の子を置いては行けないから、よろしく伝えてね、と言い添える。ハンナに付き添いを断られた朝から、ミーナは向かいの戸に目をやるたび、帳場の筆を止めるようになっていた。
「リオちゃん、早く見つかるといいわね」
「ああ」
包みを受け取って、バルトは短く答えた。
通りを渡ると、靴直しの店の戸は半分だけ開いていた。仕事台の上には、直しかけの靴と木槌が、音のやんだ朝からそのままの形で置かれている。声を掛けると、奥から出てきたのはカイだった。白衣の上に薄い上着を羽織り、往診の鞄を戸口の脇に下ろしている。
「静かに頼む。やっと少し眠ったところだ」
カイは眼鏡を指で押し上げ、奥へ顎をしゃくった。
奥の部屋は窓の板戸が閉じられ、細い隙間から差す夕方の光が、床板に一筋の線を引いているきりだった。寝台のハンナは額に湿った布をのせ、浅い息をくり返している。部屋の隅には、もう一つ小さな寝台があった。上掛けはきちんと畳まれたまま、誰の重みも受けていない。
「二晩、ほとんど横にならなかったそうだ。水も、言われてやっと一口飲む」
カイが、寝台に届かないほどの低い声で言った。バルトが卓に包みを置くと、ハンナの瞼がかすかに動いた。
「……バルトさん。見つかりましたか」
「今日も、みんなで探してる。ジルが森の縁へ出ているそうだ」
どちらの言葉にも、嘘はなかった。ハンナは小さく頷き、お店を開けておいてくださって、と言いかけたところで、また目を閉じた。眠りに戻っても、眉のあいだの皺だけは、ほどけずに残っている。カイが布を取って水に浸し、固く絞ってから額へ戻す。その手つきは、診療所で小瓶の栓を抜くときと同じように静かだった。
バルトは包みの紐をほどき、中身が鶏と蕪であることが分かるよう、卓の上に広げておいた。目が覚めたときに、誰が見てもすぐに手をつけられるように、という心づもりだった。紐の端を指で揃えていると、横から視線を感じた。カイの目が、バルトの指先に一瞬だけ留まり、それから寝台のほうへ戻っていった。
爪の際まで洗い上げた、いつもの指だった。震えもしなければ、急ぎもしない。バルトは紐を巻いて包みの脇に置き、カイのあとについて戸口へ出た。
表に出ると、市場通りはもう半分ほど影に沈んでいた。カイは鞄を提げ直し、眼鏡の奥からバルトの顔を見上げた。
「お前、最近顔色がいいな」
「よく眠れてるんだ」
「こんなときに?」
責める声ではなかった。棚の札を読み上げるときの、医者の平らな声だった。
「肉屋は朝が早い。横になれば、すぐに眠れる」
これも、偽りではなかった。ただ、いつもより深く眠るようになった時期のことは、言わずにおいた。金曜ごとに端肉を買いに来ていたトマス爺が、ぱたりと来なくなった、あの金曜からのことだ。カイは、そうか、とだけ言って鞄の留め金に目を落とした。それから、ハンナさんに寝つきのよくなる葉を包むから、診療所まで付き合え、と続けた。真向かいのお前が届けるのが、いちばん早い、と。
バルトは頷いた。カイの問いが何を量ろうとしたものなのか、胸の内で一度だけ転がしてみる。転がしても、何も引っかからなかった。ただ、幼なじみの目がどこへ向き、どこで留まったのかだけは、肉の目方を覚えるのと同じように、正確に覚えておいた。
◆
カイの診療所は、市場通りの坂を上りきる少し手前にある。並んで坂を上るあいだに、通りのあちこちの戸口へ、今夜も灯が一つずつ出されはじめた。酒場帰りらしい男たちが、獣の話を声を落として交わしながらすれ違っていく。カイは鞄を提げたまま、一度もそちらを振り返らなかった。
軒に干した薬草の束が夕風に揺れ、戸を開けると、乾いた葉と煮出した根の匂いが、外より冷えた空気と一緒に流れ出てきた。カイは灯を一つ点けると、奥の机に向かって背中を丸めた。机の端には、父の代からの古い帳面が積まれたままになっている。カイは薬研の脇に紙を広げ、棚から下ろした葉を指先で量っては、小さな包みに分けていった。
「強いものじゃない。眠ってもいいのだと、体に思い出させるくらいのものだ」
バルトは丸椅子には腰を下ろさず、壁際の棚の前に立っていた。栓をした小瓶が背丈の順に並び、どれにも細い字の札が下がっている。
棚のいちばん端に、紙の袋が一つだけ、小瓶の列から離して置かれていた。口は折って閉じてあり、札には、トマス、とだけ書いてある。元は靴職人の、あの爺の名だった。
カイは包みを折る手を止めずに、一度だけその袋のほうへ目をやった。バルトも同じ袋を見た。どちらも、何も言わなかった。灯の芯がかすかに鳴り、坂の下からは、捜索から戻る男たちの声が、低く、とぎれとぎれに上ってくる。
爺のときに揺れたのは、三人ぶんの水面だった。そのうちの一つが、この棚の端で、まだ揺れやまずにいる。バルトはそれを、小瓶の数を数えるときと同じ目で眺めていた。
「さっき、ハンナさんの枕元で、昔のことを思い出した」
カイが、包みの端を折り込みながら言った。
「昔?」
「川べりの土手の、小鳥だ。草むらで動かなくなっていたやつに、俺が泣きながら土をかぶせてたろう。お前は横で、不思議そうな顔をして見てた。親父に話したら、肉屋の倅らしいと笑われたよ」
カイは最後の包みに紐を掛け、ようやく顔を上げた。眼鏡に灯が映りこみ、その奥の目の色はよく見えなかった。
「あのときも、同じ顔だった」
「どんな顔だ」
「さあな。うまく言えん。……ただ、同じだと思っただけだ」
バルトは、自分の頬に手をやりたいとは思わなかった。自分がどんな顔をしているのかを、これまで一度も気にしたことがなかったからだ。
カイはそれ以上を足さなかった。笑いもせず、問いも重ねず、四つ並べた包みを、まとめて紙でくるんでいく。その手つきには、さっき額の布を絞ったときと同じ静けさがあった。
「覚えてないと、前にも言ったろう」
「ああ。聞いた」
カイは眼鏡を外し、白衣の袖で一度だけ拭いた。かけ直した眼鏡の奥の目は、もう手もとの包みのほうを向いていた。
包みは、バルトの掌にのせられた。乾いた葉の軽さの下に、医者の指の冷たさがわずかに残っている。寝る前に一つずつ、湯で煮出して飲ませてやってくれ、とカイは言い、それから棚の端へ、もう一度だけ目を向けた。
「トマス爺の薬、まだ取りに来ないんだ」と、カイが静かに言った。




