第50話 松明の夜
鐘が鳴りやんだあとの広場へ、町じゅうの灯が坂を下って寄り集まっていく。町がひとつの向きへ動くさまを、バルトはこの夜、初めてその内側から見ることになった。
戸板を立て終えると、バルトは裏口から荷車を引き出し、作業場の水樽を二つと、灯の油を入れた壺を積んだ。店の軒下に掛けてある手提げの灯も、あるだけ外して荷台に並べる。階段の上からミーナが顔を出したので、子供たちと二階にいるように言い、閂を下ろしておくよう頼んだ。母の後ろからヨナが、ぼくも行く、と言いかけたが、母に肩を押さえられると、黙って階段の上に残った。ミーナは頷いて一度奥へ引っこみ、布にくるんだパンと、湯を満たした土瓶を抱えて下りてきた。
市場通りを下りきった広場では、駐在所の戸口の脇に篝火が焚かれていた。火の粉が爆ぜるたびに、集まった男たちの顔が赤く浮かんでは沈む。男たちの多くは、薪の先に油を染ませた布を巻いた松明を手にしていた。縄につながれた茶色の犬が人の多さに落ち着かず、さっきから短く吠え続けている。
分隊長のオルドは、戸口に出した椅子に腰を下ろしたままだった。立ち上がろうとして腰に手をやり、顔をしかめて座り直す。それを二度くり返したあと、オルドはジルを手招きし、低い声で何か言った。ジルは背筋を伸ばして頷き、篝火の前へ進み出た。
「集まってくださって、ありがとうございます。これから、組を分けます」
張り上げた声は、終わりのほうで少し上ずった。ジルは小さな帳面を開き、篝火にかざして読み上げていく。荷運びの男たちは川べりを下流へ、粉屋の親父の組は学校と坂の下の空き地を、酒場の主人の組は街道沿いの納屋を一軒ずつ。帳面をめくる指がこわばるたびに、紙の端が火の明かりを受けて揺れた。
「森の縁は、私が行きます。ただ、灯の数が……」
そこでジルの声が細くなった。バルトは荷台の灯を一つ取り、油を足して篝火から火を移すと、ジルの横に並んで高く掲げた。
「うちの灯を使ってくれ。油も水も積んできた。森の入口までなら、荷車でも通れる道を知っている」
ジルは一度だけ目を見開き、それから深く頭を下げた。若手のネッドが荷台の灯を受け取り、森へ向かう男たちに一つずつ配っていく。火を移す手もとがおぼつかず、芯が燻るたびに、ネッドは唇を噛んでやり直した。誰も笑わず、誰も急かさずに、火が点くのを待っていた。
篝火から少し離れたところに、ハンナが立っていた。前掛けは外していたが、両の手は、朝に布を握りしめていたときと同じ形のまま、胸の前で重ねられている。隣では往診の鞄を提げたカイが、湯気の立つ椀を持たせようとしていた。ハンナは受け取りはしたものの口はつけず、広場を出ていく灯の一つひとつを、目で追っていた。夜明け前から探しに出ていた亭主は、泥だらけの靴のまま、川べりの組に加わったという。
カイはバルトに気づくと、眼鏡を指で押し上げた。
「俺はここに残る。怪我人が出たら、運んでこい」
「ああ」
広場を出ていく灯を、バルトは荷車の柄を握りながら数えた。四十を過ぎたところで、数えるのをやめた。爺のときに揺れたのは、三人ぶんの水面だった。胸の内は相変わらず平らなままで、ただ、数の桁が一つ変わったことだけが、はっきりと分かった。
◆
森の入口までは、街道を外れ、刈り入れの済んだ畑の脇の道を行く。車輪が轍を踏むたび、荷台の水樽が重い音を立てた。夜の畑は思いのほか冷えこみ、吐く息が灯の明かりの中で白くほどけていく。
森の縁に着くと、ジルは男たちを十歩ほどの間を空けて、横一列に並ばせた。松明の火が木立の手前に点々と並び、明かりの届くところまでを確かめながら、列はゆっくりと進んでいく。リオ、と誰かが呼ぶと、少し離れた灯がそれを受けて、また呼んだ。名を呼ぶ声は列の端から端へ渡り、木立の奥へ吸いこまれて、何も返してはこなかった。
振り返ると、畑の向こうの町には、ところどころに灯が残っていた。今夜はどの家も明かりを落とさず、戸口に一つずつ灯を出しているのだった。帰ってくる子が、道に迷わないように、ということらしかった。
バルトは列のいちばん外側を、荷車を引いて歩いた。誰かの灯が細くなれば油を足し、喉を嗄らした者がいれば、柄杓で水を汲んで渡す。受け取った男たちは、すまねえ、肉屋さん、と短く言い、飲み終えるとすぐに列へ戻っていった。荷車の柄は夜露で湿り、握り直すたびに掌が冷えた。
列の外側からは、灯の並びがよく見えた。誰かが呼ぶたびに列がわずかに揺れ、その揺れが端から端まで伝わっていく。バルトは柄杓を持ったまま、その揺れがどこまで届くのかを眺めていた。
列の半ばで、ベン爺がふいに足を止めた。今夜は酒の匂いがしない。猟師だったころのものらしい古い外套を羽織り、松明を低く構えて、足もとの土を睨んでいる。
「この刻限の森は、獣の縄張りだ。奥へ入るなら、明るくなってからにしろ」
近くの男が、酒場の話の続きか、と笑った。別の男は、角猪なら駐在所の犬でも追い払える、と肩をすくめる。ベン爺は何か言い返しかけたが、灯の明かりでは土がろくに読めないらしく、舌打ちを一つして列に戻った。バルトは柄杓に水を汲み、黙って差し出した。ベン爺はそれを一息で飲み干し、暗くちゃ何も分からん、と吐き捨てた。
夜半を過ぎたころ、隣を歩いていた男が、松明を持ち替えながら訊いてきた。靴直しの店と同じ並びに住む男だった。
「肉屋さんは、真向かいだろう。昨日の夕方、何か見なかったのか」
「ジルに話したとおりだ。表に水を撒いて、日が落ちきる少し前に戸板を立てた」
男は、そうか、と頷いて前を向いた。訊かれたことに、訊かれた分だけ答える。台の前でも、夜の森の縁でも、それは同じだった。
空が白みはじめるころには、松明の多くが燃え尽きていた。川べりの組も、学校の組も、何ひとつ見つけられないまま、一人、また一人と森の縁へ集まってくる。その中に、ハンナの亭主の姿もあった。泥は膝まで上がり、誰とも目を合わせずに、森の暗がりばかりを見ていた。
ジルは荷台の縁に腰を下ろし、膝の上で帳面を開いたまま動かなかった。組の名の上に引かれた線は、どれも同じ太さで、同じ長さだった。袖口のほつれは夜のうちにまた広がり、声はもう、ほとんど出ていない。バルトはミーナの包みをほどき、パンを一つと、土瓶に残っていたぬるい湯を椀に注いで差し出した。
ジルはしばらく、それを見ていた。それから黙って受け取り、パンを小さくちぎって口へ運んだ。椀を両手で包む指先は、夜の冷えで白くなっている。
「……助かる」
かすれた声でそう言ってから、ジルは気づいたように顔を上げ、助かります、と言い直した。
「バルトさんがいてくれて、よかった。私一人では、灯を並べることもできませんでした」
「灯を持ってきただけだ」
ジルは小さく笑い、椀の底に残った湯を飲み干した。昼にもう一度人を集める、と言って帳面を閉じたとき、その手はもう震えていなかった。
男たちは組ごとに、眠るために町へ戻りはじめた。疲れた足取りの中から、低い声がいくつもこぼれてくる。ベン爺の言ったとおり、森の獣かもしれねえな。獣に驚いて、どこかに隠れてるのかもしれねえ。夜のあいだ誰も本気にしなかった言葉が、朝の霧の中で、一つずつ口から口へ渡っていく。
霧の向こうで、森の縁の木立が少しずつ形を取り戻していく。バルトは荷車の柄を握ったまま、その縁を端から端まで、秤の針を読むときと同じ目でなぞっていった。町が信じたがっている言葉は、もう決まっている。それがいちばんよく似合う場所がどこか、という見当も、霧が晴れるまでには、おおよそついていた。
足もとの土には、夜通し歩いた町の者たちの足跡が、幾重にも重なって残っていた。善意で踏まれた土は、もう誰の目にも、何ひとつ読めなかった。




